神西という地名は、出雲国神門郡の西部にあたるところから、そのように称されるようになったのだという。そして、この神西は小野氏が地頭として知行し、神西(じんざい)を名字として戦国時代に至った。 神西の地頭に関する記録としては、『八幡宮古証文』に、「小野高通 波加佐村へ御入部。年は貞応二年(1223)癸未」とあり、『十楽寺の縁起』には「鎌倉の住人神西三郎左衛門小野高通この地に封ぜられ(後略)」とある。これらの古記録から、神西三郎左衛門小野高通が貞応二年(1223)にはじめて神西の地頭に補されたことが知られる。小野高通は鎌倉御家人で、承久の乱(1221)後に神西地頭に補された、いわゆる新補地頭であった。神西に下向した高通は『八幡宮古記』によれば、貞応三年に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し、領内の鎮護としている。以後、代々神西を領して次第に所領を拡大していったようだ。 神西の祖高通が称した小野氏とは、上古からの大族の一つで多くの流れがある。そもそもは、小野篁を祖とする小野氏が武蔵国に広まり、平安時代末期に勃興した武士団である武蔵七党の一角を占めるようになった。すなわち、横山党、猪俣党らで、鎌倉幕府が開かれると、その多くが鎌倉御家人となって各地に所領を得て広まっていった。神西氏の祖、小野高通もそのような小野氏の流れと思われるが、高通以前の系譜が明確ではないのが残念である。 鎌倉幕府が滅び、南北朝の内乱を経た明徳年間(1390〜93)に至って神西氏の動向を示す文書が現れる。まず南北朝の合一がなった明徳三年(1392)、神西惟通が六郎清通に所領を譲り渡した「譲状」が知られる。ついで、翌四年には出雲守護の佐々木京極高秀から神西三郎六郎が「当国神門郡朝山郷の内、稗原左京亮跡、但し稗原を除くの事、給恩となし相計る所なり」と所領を宛行われている。三郎六郎とは、さきの譲状にみえる六郎清通であり、神西氏は相伝の地を領しながら、出雲守護京極氏に属していたことがうかがわれる。 戦国時代と神西氏 やがて、室町時代の戦乱のなかで出雲守護佐々木京極氏は衰退し、守護代であった尼子氏が台頭してくる。そして、尼子経久は出雲の諸勢力を配下に収め、ついには山陰山陽八ケ国を支配する戦国大名にのし上がったのである。 神西家も尼子の麾下に属し、経久の代に作られた分限帳には「美作の内 4667石 神西三郎左衛門 足軽大将」と見えている。この「美作の内 4667石」というのは、本領に加えて給わった新恩地であった。 尼子氏は経久の代が全盛期で、経久の後を継いだ晴久の代になると、その勢力に翳りが見えてきた。そのきっかけとなったのは、尼子氏の麾下を離れて大内氏に転じた毛利元就を攻めた「郡山合戦」に敗北したことにあった。 永禄元年(1558)、毛利元就が出雲へ攻め入る形勢を見せた。このとき、尼子勢は富田城中で軍議を行った。その場で、亀井能登守は「門田、高野山等の押えには、三沢、真木の人々、山内、三吉等の押えには、赤穴右京亮に寵城させ、銀山、羽根ロは神西三郎左衛門を城地堅固に守らせ、三瓶山口にたしかなる押えこれ無く候間」と述べている。また、『雲陽軍実記』には尼子旗下の「第一は白鹿、第二は三沢、第三は三刀屋、第四は赤穴、第五は牛尾、第六は高瀬、第七は神西、第八は熊野、第九真木、第十大西なり。これを出雲十旗といふ」と記されている。尼子家中における神西氏の存在の重さを推して知るべしというところであろう。 頽勢になりつつあったとはいえ、尼子氏は晴久一代の間は大きな綻びには至らなかった。しかし、永禄三年(1560)、晴久が病死し義久が後を継いだころから、一気に衰退の色を深めていった。一方、弘治元年(1555)、安芸の毛利元就が大内義隆を滅ぼした陶晴賢を厳島の戦いで滅ぼし、山陰山陽五か国を固めた元就は尼子氏も併呑しようと企図した。このような情勢のなか、義久は神西三郎左衛門に神西庄波賀佐村・久村・清松村などを安堵する安堵状を下している。 尼子氏の滅亡、乱世の終焉 永禄六年(1563)、毛利氏と尼子氏との間に合戦があったが、尼子方の敗戦に終わった。この敗戦によって尼子方の武将の多くが毛利に降った。このころ、神西三郎左衛門も毛利氏に降ったようだ。しかし、永禄八年四月、毛利氏が富田城へ総攻撃をしかけたとき、大手門を守っていた諸将十四人のうちに神西三郎左衛門の名がみえている。一度、毛利氏に降ったとはいえ、尼子氏に復帰し富田城の攻防に際して尼子方の一角を守ったのであろうか。とはいえその後、翌年に富田城が落ちるまで神西氏の名は見えないことから、ふたたび毛利氏に降ったのであろう。結局、富田城は落ち尼子義久は毛利に降り、戦国大名尼子氏は没落の運命となった。 毛利氏に降った神西三郎左衛門は、伯耆の末石城主に配され、代々の居城である神西城には復帰できなかったようだ。 その後の永禄十二年(1569)、山中鹿之助を盟主とする尼子の残党が京都東福寺で僧になっていた尼子一族の勝久を奉じて出雲へ攻め入った。鹿之助は末石城の神西三郎左衛門に書状を送って、味方に誘った。これに三郎左衛門は応じ、尼子勝久を擁した尼子勢は出雲を席巻した。しかし、元亀元年(1570)、布部山の戦いに敗れた尼子勢は、次第に勢力を失墜していき、翌年になると出雲から京へと退去するほかなかった。そのなかに、神西三郎左衛門の姿もあった。 京に逃れた尼子の一党は織田信長の配下となり、天正五年(1577)、羽柴秀吉の毛利攻めの先鋒となり播磨国上月城に入った。毛利軍は大軍をもって上月城を包囲し、秀吉も援軍を率いて上月城の隣りの高倉山に陣を張った。しかし、毛利軍は秀吉軍をしのぐ軍勢を動員し、ついに信長からの退去命令もあって、秀吉は陣を払って退却してしまった。 ここに上月城は万事窮し、主将の勝久が切腹をすることで城兵の助命を願った。かくして上月城は開城となり、神西三郎左衛門も勝久とともに切腹して果てたのであった。いまも、上月城趾には、勝久・三郎左衛門らの供養碑が立っている。・2005年07月07日 ・写真:上月城祉にある神西元通の碑 お奨めサイト…●神西村史 ■参考略系図 ・八幡大神古証文に見える神西家十二代。神西氏の系図を御存知の方、御教示ください。 小野 三郎左衛門 高通─元通─景通─時景─貞景─清通─惟通┐ │ ┌───────────────────┘ │ 三郎左衛門 └為通─廣通─連通─久通─国通(元通) |