湯原氏は天智天皇の皇孫湯原親王より出ると伝える。親王八代の孫治部丞邦富は、貞観十四年(872)三月、清和天皇より源姓を賜り湯原と号した。そして、邦富十三代の孫師房は、後白河天皇の御代はじめて朝廷に出仕し北面昇殿を許されたという。師房の子左衛門尉師広は嗣子なく、源為義の四男堀口頼賢を養子とした。頼賢はのちに湯原左衛門尉義広と改め、保元の乱で兄義朝と戦って討死した。とはいえ、『尊卑分脈』に見える頼賢のところには、このような記述は当然ない。おそらく、後世の創作であろう。 歴史への登場 さて、義広の子義綱は、平治の乱後、駿河国庵原に蟄居し、治承四年(1180)頼朝挙兵のとき伊豆にくだり、元暦元年(1184)正月、木曽義仲追討軍に加わって上洛した。以後、一の谷の合戦、屋島合戦に功をたて、壇の浦の合戦でも軍忠を尽くした。それらの功により、文治四年(1188)、駿河・近江両国の地頭職に併せて相模国朝田庄を賜った。さらに、関東評定加賀判当判に任じられた。 義綱の子義景がはじめて出雲国島根に下り、沖津左衛門と号したという。しかし、どのような背景があって、島根に下ったものかは詳らかではない。義景の子経景は承久の乱後、将軍の命により京都に入り役務についた。元亨三年(1323)嘉常は北条高時の命により鎌倉に下り、元弘三年(1333)楠木正成の拠る千早城を攻めたが、同年、出雲に帰国している。 後醍醐天皇が隠岐を脱出し、伯耆国船上山に遷幸、中国の諸武士に綸旨を下した。これに、嘉常の子頼綱は応じて、官軍の一員となり軍忠を尽くし、その功によって出雲国秋鹿・島根、伯耆国相見を賜った。暦応四年(1341)三月、塩冶高貞が謀叛を起こし、尊氏の命により山名時氏が討手に向かったが、頼綱はその手に属して軍功をあげ、尊氏より美作国勝田郡・大野郡地頭職と併せて近江国蒲生・高島地頭職を賜った。 次の山城守元信は、足利義詮に仕えて父の旧領を安堵され、応永元年(1368)細川頼之に従って鎌倉に下向した。同五年、後円融天皇の即位に際して、将軍家の命により勤仕し従五位下に叙された。同七年、足利義満の筑紫征伐には先陣に加わって軍忠を尽くした。その功により、美作国苫西・久米の両郡を賜った。次の信通、その子の信隆も幕府に仕えて功をあげ、領地を賜っていることが系図から知られる。 信隆の子嘉信のとき、播磨守護赤松満祐によって将軍義教が弑殺された。その後の、赤松征伐にも参陣し軍功をたて、戦後、美作・伯耆の旧地を安堵され、出雲国秋鹿郡を賜った。嘉信の子尚信は将軍義尚に仕え、その名乗りは文明六年(1474)義尚の一字を賜ったもので、御相伴衆にも加えられている。 戦国期の湯原氏 尚信の子豊前守信綱のころから、時代は戦国の様相を強くし、信綱は尼子経久に属して大永七年(1527)出雲国島根郡佐陀江に城を築いて、伯耆国時山を嫡子宗綱に譲り、自らは島根に下り満願寺城を築いた。宗綱は伯耆国時山城を居城として、美作国大庭・大野・久米之内西分、稲葉国八上、伯耆国相見・久米、出雲国島根・秋鹿を領し、威をおおいに奮った。 天文九年(1540)、宗綱は尼子晴久の軍に属し、毛利氏の本拠吉田城攻めに参軍した。そして、九月十四日の白大豆坂の合戦で、宗綱は乗馬を深田に落とし進退に窮したところを毛利方の山県弥三郎に討たれてしまった。行年二十三歳という若さであった。 宗綱の戦死により家督は弟の春綱が継いだ。春綱は元就の使者天野紀伊守隆重・大谷平三兵衛元親らに毛利随身を勧められ、かつ桂元忠・児玉元実よりも誘いがあり、ついに永禄五年(1562)毛利氏に随身した。以後、出雲・伯耆をはじめ、永禄十一年には伊予攻めにも参陣し、元亀年間は出雲末次城、同二年からは加賀城の在番も勤めた。しかし、伯父米原広綱が尼子勝久方に離反すると、春綱も疑われ、毛利家に忠誠を誓約する起請文を吉川元春に提出した。 天正七年(1579)美作国祝山城の在番を命じられ、翌年、織田信長に帰属した宇喜多軍に包囲されたが屈せず籠城した。その功により、美作にて三百貫、伯耆にて二百石を宛行われた。春綱が美作国祝山城に在るとき、織田信長より羽斯波秀吉を通じて味方するようにと、しかも出雲一国を与えるとの利をもって誘われたが、春綱はこれを入れず、吉川元春の面前において秀吉からの書状を焼却し、毛利家に対し誓紙を差し出している。 萩藩士として近世へ 春綱は毛利氏に属してから、尼子征伐、上方口弓箭など天正十年(1582)毛利氏と秀吉が和平するまで、諸所の戦において戦功をたてた。そして、天正十九年八月死去した。享年七十八歳、まさに先陣に明け暮れた一生であった。その子元綱も父とともに、尼子征伐、上方口弓箭・四国・九州・高麗の陣において数々の戦功をたて、元就・隆元・輝元・吉川元春・小早川隆景その他より、数多くの感状・証文を賜った。 元綱の子元経は、伯耆国相見・久米、出雲国島根・秋鹿を領し、出雲国島根郡佐陀江の満願寺城に居住していたが、関ヶ原の合戦で毛利氏が安芸より防長に転封となったときこれに従い、周防国熊毛郡小周防に移った。子孫は、萩藩大組の一として続いた。 ■参考略系図 ・『萩藩諸家系図』から |