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依藤氏
四つ葉酢漿草(浮草)
(藤原姓?)
・見聞諸家紋に依藤豊後守の家紋としてみえる。


 依藤は寄藤とも書かれる。播磨国加東郡東条谷依藤野を本拠とした中世後期東播の土豪武士で、室町時代には守護赤松氏の有力被官であった。戦国期に至って、別所氏と並ぶ東播の有力国人に成長した。『太平記』によれば、元弘三年(1333)の夏、足利尊氏・赤松円心らに敗れた六波羅探題北条仲時は、関東へ走る途中近江国番場の宿で官軍に阻まれ自刃した。将士四百余人もこれに従ったが、それらの人々のなかに寄藤十郎兵衛があり、寄藤氏の一族と思われる。
 依藤氏の出自は明かではないが、もとは関東御家人であったようで、播磨に所領を与えられて移り住み、赤松氏の被官となって力を蓄えていったようだ。また、依藤(小沢)城址に建つ「石碑」の碑文によれば、文治二年(1186)三月、岡山宇野の豪族宇野八郎山城権守豊季が、平家を破った功で東播磨の東条谷を賜り来住、依藤野を本拠としたとある。
 鎌倉幕府滅亡後、南北朝の動乱が続いたが、情勢は武家方=北朝方の優勢に推移していった。明徳二年(1391)、有力守護大名山名氏が幕府に反乱を起したが、あえなく幕府軍によって鎮圧された。いわゆる明徳の乱であり、乱を平定した将軍足利義満は、翌明徳三年に念願であった相国寺供養式をとりおこなった。この供養式には室町幕府の大小名が扈従し、播磨守護赤松一族も供奉した。その後陣の四番に浦上・小寺・後藤氏らと並んで依藤資頼の名がある。資頼は依藤太郎左衛門尉藤原資頼と記され、「依藤系図」などにいう赤松氏と同じ村上源氏ではなく、はっきりと藤原姓を名乗っている。碑文にもあるように、依藤氏が播磨土着の家であることに疑義がはさまれるゆえんである。

戦国時代への序奏

 室町幕府の六代将軍足利義教は幕権の回復を急ぐあまり、諸大名の家督相続に介入し「悪将軍」とあだ名された。永享九年(1437)、山名・赤松氏の間で若党の口論から争いが起こり将軍義教が裁定した。翌年三月、赤松満祐の被官依藤はじめ四人の者が湯起請を申しつけられ、幕府から処罰されている。
 その後、将軍義教の圧迫に耐え兼ねた赤松満祐は、嘉吉元年(1441)六月、義教を弑殺した。世にいう「嘉吉の乱」である。満祐は義教を殺害すると京都の邸に火をかけて、領国播磨に落ちて入った。赤松追討軍の先発隊が出陣したのは、事件から一ヶ月を経た七月十一日のことであった。追討軍は、摂津から進む大手軍、但馬から南下する搦手軍、それに西方の諸守護勢にも動員令が出されて、一応、包囲体制がとられた。
 満祐は書写坂本城を本拠に定めて幕府軍を迎え撃つことにした。坂本に集まった主だった家臣は八十八人、総勢二千九百騎とも三千九百七騎ともいわれる。これらを率いて三方から迫る追討軍と対決しようとするのは、満祐・教康父子のほか、満祐の弟竜門寺真操・義雅・則繁、それに甥の則尚らであった。
 『赤松秘士禄』によると、人丸塚の将は赤松教康・浦上宗治で、副将として依藤太郎左衛門豊房の名がみえる。また、『赤松盛衰記』には、満祐方は教康を大将に和坂に布陣、八月二十四日、浦上・依藤・櫛橋・中村・魚住・釜内・別所らの諸将が一斉に人丸塚の敵陣に押し寄せ、追討軍を須磨のあたりまで追い落した奮戦ぶりを記している。
 しかし、大勢の幕府軍の攻撃により、赤松氏嫡流は滅亡、一族は没落した。依藤氏も一時衰えたが、寛正六年(1465)赤松政則が赤松家を再興すると、年寄衆として復活した。『応仁記』にも依藤豊後守が見え、『見聞諸家紋』にも依藤豊後守の家紋が収録されている。このことは、豊後守が赤松政則の有力被官として京都に詰めていたことをうかがわせている。
 この豊後守は依藤則忠のことと考えられる。則忠は応仁の乱の初期の激戦のひとつに数えられる京都一条大宮の合戦で、山名教之軍と激突した赤松勢のなかにあって、山名常陸守を討ちとる巧名を挙げ赤松軍勝利に大きく寄与している。

依藤氏の勢力伸長と滅亡

 文明年間(1469〜86)になると、秀忠の名があらわれ、弥三郎ついで太郎左衛門を称している。このころ、依藤氏は東条谷を中心とする周辺地域の国人土豪たちを被官として支配下に組み込んでいたようで、それら被官衆をとりまとめる年寄衆と呼ばれるものもいた。栗山氏・稲岡氏・新延氏らが知られ、いわゆる依藤家中の重臣であった。文明十五年(1483)、赤松政則は真弓峠の戦いで山名軍に大敗を喫した。政則の但馬侵攻に反対していた国人衆は政則から離れ、浦上則村・小寺則職らを中心とする赤松重臣らは赤松慶寿丸の擁立を企てた。このことは別所則治の奔走により政則が家督の座に帰り咲くことができたのだが、このとき将軍義尚に慶寿丸擁立を訴えた重臣五名のなかに依藤弥三郎もいた。
 やがて、赤松氏の勢力が弱まってくると、細川高国方の浦上村宗の援助を得て別所就治と東播の覇権を争った。そして、依藤氏が東条谷の雄たることを示したのが、亨禄三年(1530)の柳本賢治との合戦である。一説には別所村治が依藤攻めを要請したともいわれており、則治以降三木城を拠点に東播磨支配をすすめてきた別所氏との対立が顕在化したのである。依藤氏は柳本軍を相手に一ヵ月半にわたって戦い、賢治暗殺の混乱に乗じてついに柳本軍を撃ち破って敗走させ、内外に依藤氏の名を高からしめた。同時に細川高国の与党浦上村宗が三木城に村治を攻めたため、別所氏は東条谷進出の好機を逸しただけでなく、しばらく三木城を没落して逃亡生活を余儀なくされた。
 ついで依藤氏が史料上にみえるのは秀長である。秀長のころになると、清水寺中の喧嘩の裁定に介入するなど周辺地域に対する支配をさらに強め、被官としても栗山・新延氏のほかに垂井・東条・吉河・今安など東播磨の中小国人土豪の名がみえるようになる。
 その後、太郎左衛門を名乗る人物が活躍する。ところが三木城を回復した別所氏の勢力が東条谷に伸びてくるようになり、太郎左衛門が死去したのち東条谷は別所氏が支配するところとなった。永禄二年(1559)、別所氏は依藤牢人衆を匿ったとして清水寺を破却しようとし、これに対して清水寺衆徒は別所氏にあてて請文を提出し、寺家破壊を免れた礼を述べるとともに、今後は別所氏に対して野心を抱く輩は抱え置かないことを誓っている。このことから、依藤氏の東条谷支配が終焉を迎えたのはこれより先のことということになる。
 また、同じ永禄二年、新延・吉井・垂井氏など依藤に属していた国人らが、相次いで清水寺にい田地を寄進しているが、これは依藤氏滅亡にともなう東条地域が混乱するなかで、各家の安全・武運長久を祈願したものと考えられることから、依藤氏の滅亡はこのころと考えて間違いないだろう。


. 依藤氏、縁りの地を訪ねる  


室町時代、播磨守護は赤松氏が補任され、その威勢はおおいに振るった。その有力被官であった依藤氏は、 加東郡東条谷に本拠をおき、戦国期には別所氏と並ぶ有力国人に成長した。はじめ、豊地城によっていたようで、 のちに小沢城、屋口城を築き、依藤城を中心とした防衛戦を構築したようだ。豊地城址は中谷の八幡神社のあたりに あったといい、城址を歩くと土塁、堀跡が随所に残されている。

豊地城から北方の東条谷に位置する依藤城跡へは、車で約10分で到着する。城址は雑木林に覆われているが、 周囲を細い道が取巻き、郭や堀切のあとが見て取れる。また、西の郭には明治二十年に建立された依藤城碑があり、 依藤氏の歴史をいまに伝えている。依藤城からさらに北方に行くと、別所氏に攻められた冷泉為勝を助けた 依藤太郎左衛門と為勝の墓碑が道端の一角に佇んでいた。



依藤氏の余滴

 依藤氏は別所氏との本格的な戦闘の末に滅亡したものか、太郎左衛門の死につけ込んだ別所氏が東条谷を侵略したものかははっきりしない。ともあれ、依藤氏が居城としてた豊地城には別所安治の弟重棟が入り、三木城の北の押さえとなったのである。
 しかし、依藤氏はこの後もかろうじて命脈を保っていたようで、天正六年(1578)別所長治が冷泉為純父子を攻め滅ぼした際には、反別所党と目される依藤太郎左衛門も討たれている。これは先の太郎左衛門の子であろうか。東条谷の覇権をめぐって別所氏と争ったかつての面影はなく、ここに東条の雄依藤氏は播磨の歴史舞台から姿を消すことになる。
 丹波と播磨府中を結ぶ丹波街道が走り市場も立つ豊地を拠点に、周辺地域の国人土豪を被官に組み込み、東条谷を中心に勢力を拡げて大名化の道を歩みはじめた依藤氏の足跡には、中世後期における国人領主の典型的な発展過程をみることができる。残念ながら、最終的には別所氏に併呑・滅亡させられてしまったが、依藤氏が中世東播磨の雄であったといっても過言ではないだろう。
 依藤一族の子孫は東条谷に帰農、近世大庄屋や庄屋をつとめ郷士となったと伝えられている。

【参考資料:小野市史・東条町史ほか】


■参考略系図
・詳細系図不詳。


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