武田清光の子義行が奈古姓を称し、孫の弥太郎信継がはじめて甲斐国八代郡小石和筋の米倉に居住して、姓を米倉に改めたのが始まりとされる。 信継より十世の孫丹後守宗継は武田信玄に仕え、二十人衆を経て甘利昌忠の同心頭となり数々の戦功を挙げた。当時、鉄砲の威力がようやく知られ、その防御策にいろいろと取りくんだが、なかなかうまい案がなかった。そこで工夫されたのが「竹束仕寄」で、竹の幹のつるつるのところを利用して玉をそらそうというものだった。その考案者が宗継といわれ、やがて広く使われるようになっていった。 しかし、宗継は天正三年(1575)長篠の戦で戦死した。宗継のあとは養子の忠継が家督を継ぎ、武川衆の頭目となった。武田氏滅亡のとき、武田遺臣の多くがそうであったように忠継も家康に従った。 忠継から五代の孫昌忠は、貞享元年(1684)家督を相続。のち書院番を務めた。以後将軍綱吉に抜擢され、財政・普請を担当しながら昇進を続けた。元禄三年五百石加増を受け、従五位丹後守に補される。同五年千石加増。七年・八年にも千石ずつ加増され、あわせて四千百石を知行する。同九年、若年寄に昇進、加増のうえ武蔵・相模・上野のうちで一万石を領した。ここに米倉氏は大名に列したのである。 寛正十年(1798)、武蔵六浦に転封となり、以後、代々封を襲ぎ明治に至った。 ■ 武川衆の情報 ■参考略系図 |