戦国大名武田氏の軍編成のなかに、旗本や、地方武将たちにひきいられる被官の同心、武士たち以外に、衆あるいは党と呼ばれる地域ごとにまとまった集団の武士たちがあった。その表現は、必ずしも一定したものではないが、ときにかなり自由に「衆」という表現が使われている。たとえば、「軍鑑」などには、衆というのは甘利衆・山県衆・穴山衆・一条衆・小山田衆などのように、軍の編成上、 侍大将とその被官の騎馬武者などを呼びならわしている場合がある。 武川衆の発祥 『甲斐国志』は武川衆について、石和五郎信光の末男、六郎信長という者が忠頼の家蹟を継いで一条氏を称し、その子に八郎信経があって、さらにその子一条時信は甲斐守護職に任ぜられた。この時信に男子十数人があって武川筋の各村々に分封され、それぞれ在名を名乗って子孫繁栄、のちに武川衆と号したと見えている。 これを地図のうえから見れば、西から教来石・島原・白須・山高・牧原・青木などの土豪となり、さらに青木氏からは折井・柳沢・山寺氏などが分出している。衆としての結束は、たとえば、柳沢についてみれば、『寛政重修諸家譜』に「永正頃(1504〜20)青木氏から分かれた」としているが、『一蓮寺過去帳』に残された永享五年(1434)の合戦戦死者のなかに、すでに柳沢・山寺氏らの名前があり、戦国における武川衆の原形はすでに永享のころに成立していたようだ。 武川衆は西郡路から諏訪口の武川筋がその警護範囲で、さらに大門峠口につながる棒道もその守備範囲であった。 ところで、同じ衆のうち米倉や曾雌・曲淵氏などは他から入ってきた氏で、とくに米倉氏の場合、天正十年(1582)の時点で棟梁となったが、「国志」は天正壬午のときまで武川衆ではなかったと記している。米倉一党は若彦路・黒坂口の護衛に任じていたようで、そうした面からみて国境警備に堪能な士で、ある時期から武川衆に派出されていて、やがて棟梁となったようだ。 川中島合戦と武川衆 武川衆は武田家臣団の中にあって、武田信繁・信豊父子を寄り親としていた。そして、武田軍団の猛将である典厩信繁の最も信頼する武士団でもあった。これを証明するのが、川中島の合戦における武川衆の奮戦である。 永禄四年(1561)九月の川中島合戦は。数度にわたって戦われた会戦のなかで最も激戦であったといわれるものである。武田信玄は海津城において全軍を二隊に分かち、本隊は川中島八幡原に陣し、別働隊は越軍を急襲して追い落とすため妻女山に向かった。のちに「啄木鳥戦法」と喧伝される作戦である。しかし、上杉謙信はいち早く信玄の作戦を見破り、妻女山を下って千曲川を渡り、早朝の濃霧を利して甲斐軍の本営を急襲したのである。 越軍の急襲に策が敗れたことを察した信玄は、ただちに陣容を立て直した。しかし、全軍のおよそ六割を妻女山急襲のために割いているため、劣勢を余儀なくされた。このとき、甲軍の副将として左翼前方に陣していた典厩信繁は、旗下の兵を叱咤して度重なる上杉軍の強襲を退け、本陣を死守した。 典厩信繁に従う武川衆は、信繁の手足となって奮戦した。なかでも山寺信明は、「あらかじめ戦死せんことを信繁に告げ」その馬前で壮烈な討死をとげた。さらに、寄親である信繁も、乱戦のなかで指揮をとっているところを越軍の鉄砲にあたり戦死をとげた。戦いの前半は、甲軍にとって副将信繁が戦死するほどの苦戦であり、敵将上杉謙信が単騎信玄を急襲したという「三太刀七太刀」の伝説が生まれたほどの乱戦であった。 やがて、別働隊が到着したことで戦況は逆転し、越軍は越後に去っていった。武川衆は主将を失いながらも、よく難局を絶え抜き、甲軍を勝利に導いた功績は抜群であった。 信玄領国の辺境を守る ところで、同じ武川衆のうち米倉や曾雌・曲淵氏などは他から入ってきた氏で、とくに米倉氏の場合、天正十年の時点で棟梁となったが、「国志」は天正壬午のときまで武川衆ではなかったと記している。米倉一党は若彦路・黒坂口の護衛に任じていたようで、そうした面からみて国境警備に堪能な士で、ある時期から武川衆に派出されていて、やがて棟梁となったようだ。 いずれにしても戦国末期の武川衆は、必ずしも辺境武士団としての割拠性が強いというばかりでなく、同族的な党の性格の上に、新しい氏を合流させて成り立っていたようだ。天正十年および十一年の徳川家康文書の安堵状によれば、以下の十二名の名前が見える。 青木尾張守時信 柳沢兵庫丞信俊 折井市左衛門次昌 折井長次郎次正 米倉六郎右衛門信継 米倉左大夫豊継 米倉加左衛門定継 曲淵彦正正吉 小沢善大夫 横手源七郎 青木弥七信安 折井九郎次郎次忠 かれらは、武川衆一帯に割拠した、いわゆる武川衆の頭目にあたる人々で、青木信時・信安父子、折井次昌と次正・次忠父子、そして米倉信継・豊継父子などが入っているのも、この衆の性格を物語っている。 なかでも、武川衆のうち実力者であったのは、米倉忠継と折井次昌の二人であった。この二人は「国志」によると、天正十年、勝頼滅亡の際に献策して面々の小屋へ敵を引き入れる謀略をめぐらしたという。しかし、勝頼は謀に相違して天目山に落ちて入ってしまったことで、武川衆の者は誰も勝頼の後を慕っていくものがなかった。武田氏滅亡後、米倉・折井の二人も家康を頼り、成瀬正一の計らいで遠江の桐山に匿ってもらった。 こうして、同年六月に織田信長が本能寺に横死すると、無主になった甲斐に家康の命を受けて入った二人は、ただちに武川衆を挙げて徳川氏に従わせたのである。天正十年七月、家康はこの二人の忠節に対して感状を発給している。 徳川氏に属す 武川衆は家康が新府にあって若神子に陣した北条氏直と対陣した際、大豆生田の砦をうかがい、不意に襲撃して北条方の間者を殺害し、氏直の諜書を獲得して家康に献じた。また、花水坂でも山高宮内・柳沢兵部らは敵の首級をあげる活躍をみせている。 家康は天正十八年(1590)関東入国以来、武川衆に対して武州鉢形に代替地を与えたが、その後慶長六年、甲斐国内において古の采地を賜り、平岩主計の部下に属さしめた。降って、慶長十二年(1607)、甲斐国主であった徳川義直が尾張に転封になったとき、その後の甲府城は武川十二騎が城番となってこれを勤めた。 武川衆の一員であった、柳沢氏は、将軍綱吉の時代に至って、大飛躍を遂げることはよくしられている。すなわち、元禄時代の側用人として十五万石の大名にまで昇りつめた、柳沢吉保が大飛躍の人であった。子孫は、大和郡山に移封されて幕末まで存続した。また、米倉氏も、後世、一万五千石の大名に出世している。 ■参考略系図 |