米津氏の出自については諸説あるが、一説に、藤原道隆の後裔という親勝が米津氏をとなえはじめ、後代、三河の高橋荘を領したことが世に出るはじめといわれる。一方、駿河の富士大宮司家の一支族が碧海郡米津に移住して米津氏となったともいう。すなわち、富士大宮司家初代とされる時棟の六代の後裔に則時がおり、その弟・信政が米津を称しているのである。 富士大宮司は『太平記』のなかで、棕櫚紋の旗印で大活躍している。この説がもっとも説得力があり、米津氏の家紋「米津棕櫚」から見てもうなづけるものがある。藤原通隆の後裔とするものは後世の付会であろう。 米津氏の歴史への登場 米津左馬助勝信は、松平清康・広忠・家康三代に歴仕した。その長男が、徳川十六将のひとりに数えられた常春である。常春も父と同じく広忠.家康に仕え忠勤を励む。 天文十八年(1549)、今川義元は織田信秀の西三河における拠点安祥城攻略を行った。今川軍は信秀の庶長子信広が守る安祥城を攻囲する。この戦で常春は、松平清吉・伊忠らと城壁に取りついて一番槍を競ったといい、今川方は守将信広を生け捕りにした。当時織田方に人質として取られていた竹千代は、信広と交換される。 永禄三年(1560)、上洛を目ざす義元の命で、家康は岡崎衆を率い先鋒をつとめる。常春は嫡男正勝、弟政信らとともに、大高城に兵糧を入れ、丸根城を攻め落とす家康の旗本に属し、警固役をはたした。同六年秋、三河国一向一揆が蜂起すると、常春・政信は逸早く岡崎城へ着到し、大久保党の拠る上和田砦の後詰めや鎮圧戦に力を尽くした。 世に伝わる常春の活躍は、永禄七年の三河赤坂合戦で槍をふるって活躍したところで終わり、あとは慶長十七年(1612)に没したことが知られるにすぎない。諸書に記されてはいないが、嫡子正勝は淳朴な性格を家康から愛され、関ヶ原の役に使番などをつとめていることから、老齢の常春は自適の生活を送っていたのだろう。 正勝は前途を期待されていたが、常春が世を去って半年後、不幸に見舞われた。すなわち、慶長十八年、当時、堺の政所職にあった正勝は、その属吏が汚職を犯した責任を問われ、改易のうえ阿波配流となった。翌年には、大久保長安事件に連座した科で、配流先で斬罪となってしまった。 近世大名に成長 正勝の死で米津氏嫡流は断絶したが、常春の弟政信の系が残った。政信は元亀三年(1572)三方ケ原の合戦で討死したと伝えられ、その子田政(ただまさ)は、父とともに三方ヶ原の戦いに出陣し、小牧.長久手の戦いにも活躍した。さらに、慶長五年(1600)の上杉景勝攻撃などの功が認められ、武蔵国などで五千石を与えられた。 田政はそれらの戦功もあって、徳川家康の高級官僚に出世したのであった。慶長九年には江戸町奉行となり、以後、二十年近く江戸幕府が固まる大事な時期に奉行として活躍した。その子田盛のとき、書院番頭を経て大坂城番となり、寛文二年(1666)一万石の加封をうけ、すべて一万五千石を領して大名に列したのである。寛政十年(1798)、武州久喜から出羽の長瀞に国替となり、以後、子孫相継いで明治維新に至った。 ■参考略系図 |