横瀬氏
五三の桐/二つ引両
(武蔵七党横山氏後裔/新田氏族)
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由良氏の場合、由良・横瀬・岩松の三家の関係が重要である。つまり、岩松氏の家老であった横瀬氏が下剋上によって岩松氏から実権を奪い、由良を称するようになったことである。
横瀬氏は小野姓で、武蔵七党の横山・猪股党の一族であった。同氏は猪股党の甘糟光忠の子惟忠が横瀬を号したことに始まり、惟忠は足利氏の被官として鎌倉時代後期の足利氏所領奉行人注文にも見える。彼は、新田庄横瀬郷を本領としたが、同郷は上野国内にありながら、同庄高島郷とともに利根川を隔てて武蔵国側にあった。その横瀬氏の時清の婿として入ったのが、新田義貞の子(義宗の子とも)貞氏であった。しかし、新田貞氏が養子に入ったとする伝承は、後年新田荘の支配者となった横瀬氏がその支配権の正統性を示すために創作したものと思われる。さらに、享徳三年(1455)の「享徳の乱」で活躍した横瀬国繁は、「当家代々小野篁十有九代の後胤、横瀬信濃守国繁」とみえている。このことからも、新田氏を称するようになったのは、戦国時代のことであったと考えられる。ちなみに横瀬氏の系譜は、貞氏以降、貞治−貞国−国繁と継承されたとするのが定説である。
ところで、「猪俣党系図」の一本には、猪股時兼の子男衾野五郎の孫重政が横瀬を称して、重政のあと連綿して経氏に至り、経氏の養子として新田氏から貞氏が入ったとするものもある。
甘糟氏から出た横瀬氏と男衾氏から出た横瀬氏と二つの横瀬氏があり、いずれもが新田氏から養子を迎えたとする。いずれが正しいのかは今となっては詳らかにすることは難しいが、横瀬氏は武蔵七党小野姓横山党の後裔であるとみて間違いないようだ。
●横瀬氏の登場
応永二十三年(1416)、貞氏は「上杉禅秀の乱」で鎌倉公方足利持氏に従い、その功によって新田庄内の地を与えられたという。その頃、鎌倉府の使節を務めたものに横瀬美作守がいるが、貞氏との関係は明らかではない。この貞氏の子貞治が岩松家純に属した。 貞治が仕えた岩松氏の祖は、足利義康の嫡孫義純とされる。義康の兄新田義重は義純を愛し、嫡子義兼の女婿としたことに始まり、上野国新田郡岩松郷に居住したことから岩松を名乗るようになったという。室町期には鎌倉公方足利基氏に仕え、戦功によって新田義貞以下新田方の没官領を合わせて領有し、新田氏の惣領家とみなされるに至ったのである。
十五世紀後半になって、岩松氏は持国と家純の二家に分裂し、同族相争った。岩松家純は父満純が「上杉禅秀の乱」で禅秀方に与して討死したとき幼少であったため、岩松家督は満純の父にあたる満国の外孫持国が継いだ。一方、家純は美濃守護土岐持益のもとに隠れ、のち将軍足利義教に召されて上洛し長純と名乗り、永享十年(1438)に起こった「永享の乱」に際して京勢の一将として関東へ下向した。横瀬貞治が岩松家純に属したのは、その頃であろう。
乱は幕府軍の勝利に終わり、敗れた持氏は自害して鎌倉府は断絶した。その後、持氏の遺児兄弟を擁して鎌倉府再興を企てた結城氏朝らによって「結城合戦」が起ったが、それも幕府軍に制圧された。以後、幕府を後楯とする管領上杉氏が戦後処理を行い、必然的に上杉氏の勢力が拡大、これを快しとしない関東の諸将は鎌倉府再興を幕府に願った。これをいれた幕府によって宝徳元年(1449)足利持氏の遺子成氏が取り立てられて鎌倉府は再興された。新鎌倉公方に迎えられた成氏であったが親幕派の関東管領上杉憲忠と対立し、享徳三年(1454)憲忠を殺害したことで「享徳の乱」が勃発した。以後、関東は公方方と上杉方に分裂して合戦が繰り広げられた。この乱に、幕府は上杉氏を支援する立場で介入、幕府軍に敗れた成氏は鎌倉を捨てて下総国古河へ逃れた。
この乱において、横瀬氏の主家にあたる岩松氏では、持国が古河公方足利成氏に属し、家純は上杉氏に属して同族相争った。横瀬貞国(良順)は、家純の代官として出陣し武蔵国須賀合戦で成氏方と戦って討死した。
●岩松氏の統一
乱は鎌倉を失ったとはいえ古河公方が優勢で、やがて戦線は膠着状態となっていった。やがて、幕府は上杉氏を支援する立場で乱に介入し、新しい公方として将軍義政の弟政知を関東に下し、政知は伊豆の掘越に入り「掘越公方」と称した。その一方で、古河公方を支える支柱のひとつである岩松持国に懐柔の手を伸ばした。そして、長禄二年(1458)、持国は古河公方方から幕府方に転じた。翌年の、上野佐貫荘羽継原の合戦に持国は家純に従って出陣、掘越公方から功を賞されている。しかし、寛正二年(1461)、持国は古河公方に通じたことを家純が察知、家純は持国父子を殺害した。
ここに至って、岩松氏の分裂は家純によって克服され岩松氏の統一がなったのである。
岩松家純勝利の立役者となったのは、貞国の子で家純の筆頭家老横瀬国繁であった。こうして家純は五十余年ぶりに本領の新田庄へ入部し、国繁をして同庄内の金山に城を築かせた。以後、国繁は岩松家純を支えて関東の戦乱に大活躍を示すのである。文明四年、国繁は下野国足利庄の鑁阿寺に禁制を掲げた。同八年、山内上杉顕定の執事長尾景信の死後、山内家家宰職をめぐって景信の子景春が顕定に叛した。その頃、武蔵国五十子陣に上杉勢とともに出陣していた岩松家純は、景春の攻撃を受けて金山城へ帰陣した。
岩松家純は将軍家との密接な関係をもって復活し、持国を倒して岩松氏の家督となった。そして、家純の子の明純は父が東下とき同行せず、在京のまま幕府政所代の蜷川親当の娘を娶って子の尚純をもうけている。そのような明純が関東に下向したのは、文明三年(1471)で、越後守護上杉房定の「関東出陣」について家純に「申聞」ことが任務であった。すなわち京都・関東・越後のパイプ役として東下のであった。東下後の明純は室町将軍の「外様衆」として、その政治的立場が明瞭に示されていた。それだけに、明純・尚純父子は関東の情勢に疎かったといえよう。
文明九年、顕定は家純の子明純に下野国足利庄・武蔵長井庄屋などを与えた。この地は家純が領有していたらしく、これを契機に家純は明純を勘当した。家純は一族被官を集めて神水三ケ条を誓約させ、明純の勘当と壁書の執行者として国繁を指名した。これによって、国繁の岩松家執事としての地位が確立したのである。以後、国繁は主家岩松氏に代わって国政を左右するようになった。
勘当された明純は「西国行脚」に出ることになったが、その実は山内上杉氏の居城鉢形城に寄寓した。明純が家純に勘当されたのは、山内顕定との私的関係からであり、明純としては顕定を頼るしか道はなかったのである。その後、明純は文明十二、三年頃、幕府の相伴衆に見えている。そして、それまで将軍家奉公衆にまったく見えなかった横瀬氏が長享元年(1487)に至って突如として「奉公衆五番」に見える。これは明純に従って上洛した横瀬氏の一族とみられる。
●屋裏の錯乱
岩松家純は、明純の勘当をきっかけとして管領上杉氏との関係を清算し、古河公方成氏の陣に加わった。一方で、明純の子尚純を金山城へ還住させる運動が横瀬国繁・成繁(景繁・業繁)父子によって展開された。岩松家純は老齢であり、後継者たる明純は勘当の身であり、横瀬氏は家純の後継として尚純を家督に据えようと考えたのである。その後、還住した尚純に対して、古河公方成氏との関係もあって家純は対面を拒否している。しかし、横瀬氏の奔走で古河公方に対して尚純を家純の名代とすることが受け入れられ、尚純が岩松氏の家督を継承した。そして、尚純は古河へ出仕し、岩松氏は対外的に古河公方足利氏の「御一家」に準ずる社会的地位を獲得したのである。
家純が明応三年(1494)に死去すると、横瀬父子は明純・尚純父子の和解を実現するため、山内顕定の総社の陣で両者の対面を実現させた。しかし、尚純が岩松家督にあってその代官に横瀬氏が控える体制に、明純が入り込む余地はなかった。すなわち、明純にとって隠居するしか道はなかったのである。しかし、明純は隠居を拒否して顕定のもとに帰っていった。これは、尚純─横瀬体制への明らかな挑戦であった。
その後、横瀬成繁が草津へ湯治に出かけた留守を狙って、佐野庄の佐野小太郎が金山城を攻撃した。これをきっかけに「屋裏之錯乱」が起ったが、それは、明純・尚純父子を担ぐ一派と、横瀬氏を盟主とする一派との抗争であった。別の見方をすれば、横瀬氏の専制に対して明純がクーデターを起こしたものとも受け止められる。加えて、岩松家臣団の「四天之仁」と呼ばれた金井・沼尻・伊丹・横瀬氏らの対立があり、金井・沼尻・伊丹らは明純・尚純父子を担いで横瀬氏を倒そうとしたのである。
事態は古河公方足利政氏によって裁定され、尚純は佐野庄に蟄居し、尚純の子夜叉丸を横瀬父子に預けて名代(家督)とするという条件で解決した。成繁は岩松尚純のクーデタを凌いで、岩松氏から実権を奪い事実上の新田荘の支配者となったのである。
●横瀬氏の台頭と下剋上
横瀬氏は岩松家中における第一人者の地位を確立し、幼い夜叉丸を支えるかたちで新田岩松氏の「家」権力の「代官」となった。その後、六歳になった岩松夜叉丸は金山城に移され、七歳で岩松八幡宮で元服し「新田次郎昌純」と名乗った。このとき、横瀬成繁が行事一切を執り行った。
永正元年(1504)、かねてから不和の関係にあった古河公方政氏・高基父子が武力衝突にいたった。横瀬成繁は高基方の関東管領上杉憲房に従って出陣し、その戦功に対して憲房の代官長尾景長から政氏方に属した成田氏らの旧領を与えられている。しかし、大永三年(1523)十二月、武蔵国埼西郡内の須賀合戦に嫡子泰繁とともに出陣して討死した。泰繁も須賀合戦で負傷したが、景繁る戦死のあとを受けて横瀬氏の家督を継いだ。
やがて、幼かった岩松昌純は成長するにつれ横瀬氏の専横を憤るようになり、横瀬氏を除こうと陰謀を企てた。昌純の企てを察知した泰繁は、金屋城の昌純を攻めて自害に追い込んだ。そのとき、和議を図る者があって泰繁は昌純の子氏純と和睦した。その結果、岩松氏の家督は氏純が継いだが、泰繁は岩松氏に対する圧迫をますます強め、ついには氏純も自殺してしまい岩松氏は没落した。
こうして横瀬氏は「屋裏之錯乱」以来、半世紀をかけて主家岩松氏を下剋上によって倒し、金山城主となりその覇権を確立、戦国大名への大きな一歩を踏み出したのである。そして泰繁は、天文年中に古河公方足利晴氏から信濃守を与えられ、天文十四年(1545)九月に下野壬生合戦で討死した。小田原を拠点に勢力を拡大しつつある後北条氏と、両上杉氏・古河公方連合軍とが戦った「河越合戦」の前年のことであった。泰繁のあとは嫡子の成繁が継承した。成繁は父泰繁の在世中から家政にあたっており、天文五年(1536)に御家中と百姓仕置の法度を定めている。定められた法度の施行を奉行したのは林弾正忠・同伊賀守、大沢豊前守、矢内修理亮らであった。
ところで、「河越合戦」とは武蔵河越を舞台に、新興の小田原北条氏と伝統勢力である両上杉氏と古河公方の連合軍とが一大決戦を演じた戦いである。結果は、後北条方の河越城を包囲・攻撃する連合軍八万騎を北条氏康が八千騎を率いて撃ち破り、扇谷上杉朝定は戦死、山内上杉憲政と古河公方晴氏はそれぞれの城に逃げ帰るという、北条氏康の大勝利に終わった。この合戦は目上のものが目下のものに対して一方的に戦いを仕掛け敗れ去ったもので、文字通り、関東の中世的政治地図を塗り替える画期となる戦いとなった。河越合戦に敗れた上杉憲政は平井城に拠って後北条氏に抵抗を続けたが、次第に追い詰められていた。そして、天文二十年(1551)ついに越後の長尾景虎を頼って関東から逃れ去った。
●戦国乱世に身を処す
このころ、将軍足利義藤(義輝)が関東の諸士に禁裏修理の費用を進献するよう勧めたが、成繁もそれに応じたようで、翌年、義輝から鉄砲を与えられている。鉄砲は天文十二年に伝来したばかりの、まだまだ珍しいもので、義輝が成繁に篤く報いたことがうかがわれる。
越後の長尾景虎を頼った上杉憲政は、景虎に関東管領職を譲り、関東の秩序の回復を依頼した。長尾景虎も憲政の要請を入れて、永禄元年(1558)、上野国新田に出張し金山城を攻めた。越後軍の鋭峰の前に、成繁は和を請い人質を差し出し景虎の勢力下に属した。
永禄三年(1560)の秋、景虎は三国峠を越えて上州に入り、明間城・岩下城を帰服させ、沼田城の北条孫次郎・真田薩摩守らを討ち、那波城(今村城)・堀口城を攻略し厩橋城を奪回した。その間、わずか一ヶ月足らずのことで、景虎は厩橋城を関東攻略の前線基地とし、従兄弟の蔵王堂城主長尾景連を城代と定めた。
このとき、横瀬・長尾・赤堀氏らは景虎の軍陣に加わったが、那波氏、赤井氏らは古河公方足利義氏・北条氏康らの勢力を背景として景虎に対抗した。十二月、景虎軍は那波氏の拠る堀口城主を攻撃、降参した讃岐守宗俊は嫡男の次郎(のちの駿河守顕宗)を人質として差し出した。この那波氏攻略は上州における景虎と後北条勢との代表的な戦いであった。攻略された那波氏領は、景虎の陣に加わって活躍した由良成繁に与えられ、那波氏領を手中にした由良氏は佐位郡赤石郷への進出を果たしている。
翌永禄四年の春、景虎は関東諸将十一万騎を率いて長駆小田原城を包囲攻撃したが落城には至らなかった。長陣を嫌って包囲を解いた景虎は鎌倉に入り、憲政から譲られた上杉姓の襲名と関東管領職拝賀のため鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣した。ここに長尾景虎は上杉政虎と改め(さらに輝虎、謙信と名乗りを改めている)、新関東管領となった政虎(以下、謙信と表記)に多くの関東諸将が味方し横瀬氏も味方に参じた。
永禄三年の越山のとき上杉謙信が諸将の幕紋を書き記させた『関東幕注文』に、横瀬雅楽助成繁は「新田衆」として把握され幕紋は「五のかかりの丸之内の十方」と記され、新田氏一族の西谷五郎・三原田弥三郎「二ひきりやう」、泉務太輔殿「左右之九ツ巴ニ立ニ引りやう」、金井「三反之左巴小文白の字」。雅楽助親類の常陸守・新右衞門尉・兵部少輔「四のかかりの丸の内之十方」など家臣団の幕紋が記されている。成繁が名字を横瀬から由良に改めたのは、この頃のことであったと考えられている。
永禄五年十月、成繁は上杉謙信を頼って京都から関東に下向していた近衛前嗣を懇切にもてなしたということで、受領に推挙する旨の書状を得て、翌年七月、宣旨によって信濃守に任ぜられた。また家伝文書によれば、将軍義輝は成繁を刑部大輔に任じ、御供衆に加えるとともに毛氈の鞍覆と白傘袋を免許されたと伝えている。このことは、由良横瀬氏が室町将軍から大名として認められたことを示しており、下剋上で主家岩松氏を倒した横瀬氏は室町将軍から大名として認知されるに至ったのである。翌七年、国府台合戦に敗れた武蔵国岩槻城主の太田資正が、後北条氏のために城を追われ成繁を頼ってきた。成繁は資正を牢人分として召し抱え千貫を与えたという。また、下野国足利城主の長尾景長に男子がないことから、次男顕長を婿として長尾氏に入れた。このように、成繁は戦国大名として着実に由良氏の勢力の維持・拡大に務めた。
永禄八年二月、由良成繁・国繁父子は武田氏の進出に備えて堀口に出陣、武田軍が惣社方面に移動したという情報を得たが、三月の初め金山城に帰陣している。ついで、七月にも那波に出陣したが、病のため目立った活動もしないまま金山城に帰っている。翌月には、北条氏が伊勢崎方面に進出するとの巷説があって、成繁は三たび那波に出陣した。この年の五月、将軍足利義輝が松永秀久を中心とする三好衆に殺害され、中央政局は大きく動いた。関東では群雄が割拠して互いに争う時代から、上杉・後北条・武田氏らの大勢力が三つ巴の覇権争いを展開するようになった。成繁は上杉謙信に属して、上野国へ侵攻しようとする北条氏康や武田信玄の軍勢と各地で戦い、その戦況を越後の謙信に知らせている。以後、由良氏を取り巻く状況は楽観を許さなかった。
●後北条氏への転向
関東の争乱は謙信が越山して関東に在陣すると上杉氏の勢力が強くなり、謙信が帰国すると後北条氏の勢力が強まるという、いわばシーソーゲームのような状態にあった。しかし、次第に後北条氏の勢力が伸長し由良氏への働きかけも強さを増した。一方で、西上野方面では武田信玄が侵攻を繰り返し松井田・倉賀野城が攻略され、上杉謙信を取り巻く情勢は次第に苦しいものになっていた。ついに永禄九年(1566)箕輪城も落城すると、成繁・国繁父子は謙信に叛して後北条方へ寝返ったのである。このとき、謙信の関東出陣の拠点である厩橋城を守る北条高広も由良氏に同調した。由良氏の背反に対して謙信が金山城を攻めようとした時、後北条氏は氏照を援軍に差し向けた。このとき、金山城を攻めたのは謙信と同陣を約束した常陸の佐竹義重であった。謙信にとって由良氏の後北条氏への寝返りは、関東計略に決定的な破綻をもたらすものであった。以後、由良氏は一定の自立性を保ちながら後北条方として行動した。
永禄十一年(1568)、武田信玄の駿河国侵攻を契機に甲駿相同盟が崩壊し、北条氏康は上杉謙信との同盟を望むようになった。成繁は後北条方からの和睦の使者としてしばしば上杉方を訪れ、翌十二年に成就した越相同盟の成立のために尽力している。元亀三年(1572)成繁は桐生城を襲い、桐生親綱を追放すると自ら桐生城に移り住んで金山城は国繁に預けた。桐生親綱の養父助綱は名将として知られ、関東幕注文にも桐生衆として把握されている。助綱には男子がなかったため、佐野昌綱の子親綱が迎えたが、親綱は助綱にはおよばない人物で、桐生家中は乱れ、将士民心は離反した。成繁は桐生氏の乱れを好機として、桐生城を攻撃、落城させたのであった。まさに戦国武将の面目躍如たるところといえよう。ついで膳城、伊勢崎城などを降し、新田領内の一円支配を拡大していった。
その後、後北条氏と武田氏の和約がなったことで越相同盟は破れ、ふたたび後北条氏と上杉謙信は対立関係となりった。謙信は、天正二年(1574)関東へ出陣して金山城を攻撃したが、攻め落とすまでには至らず思い通りの成果があがらないまま越後に兵を引き揚げている。この天正二年の越山を最後に謙信の関東出兵は止み、謙信は越中・能登方面の制圧に力を尽した。そして、北陸方面が一段落した天正六年三月、満を持して関東への陣触れを発した。ところが、その直後に急病となり謙信は帰らぬ人となった。その年の六月、成繁も桐生城において死去した。
上杉・武田・後北条という強豪にはさまれながら、よく領土の保持・拡大につとめた成繁の一生は戦国時代そのものであった。さらに、成繁は内政にも意を用い、成繁の善政ぶりは桐生城を落したのちの戦後処理にもうかがわれる。成繁が死去すると佐野にいた桐生親綱は桐生に潜入して旧臣らを語らって桐生城奪還を図ったが、応ずる者はなかった。これは、成繁の善政に桐生領民が満足していたことを証明するものといえよう。そして、死にのぞんでの遺言は「兄弟仲良く、神仏を敬い、領民をいたわれ」というもので、まことに成繁は文武両道の名将であったといえよう。
●戦国時代の終焉
謙信死後の越後では家督相続をめぐって謙信の甥景勝と後北条氏から養子に入った景虎が家督争いを演じた。「御館の乱」と呼ばれる内乱で、後北条氏は景虎を支援して上杉氏の内紛に介入した。一年に及ぶ抗争の結果、景勝派が勝利し景虎派を支持した上野の諸将の多くは上杉氏から離反した。この結果、後北条氏の勢いは上野・下野方面にいちじるしく浸透した。これに対して甲斐の武田氏、常陸の佐竹氏らが上野・下野・武蔵の国境地域に侵入し、足利地域には佐竹氏の軍が駐留した。
天正十年(1582)織田信長は武田氏を滅ぼすと部将滝川一益に上野国と信濃国佐久・小県両郡を与え、一益は信長麾下の関東管領として上野厩橋城に入った。このとき、国繁らは滝川氏の支配化に入った。しかし、同年六月、信長は本能寺で明智光秀のために殺害され、信長死去の報に接した厩橋の滝川一益は神流川で後北条氏と戦って敗れ関東を去って行った。ここに至って、後北条氏が関東随一の大勢力となったのである。その結果、いままでかろうじて独立性を保ってきた由良氏と長尾氏にも後北条氏の圧力が強まってきた。
天正十二年(1584)正月、北条氏政は金山と足利に使者を送り、年賀をかねて軍法のことにつき相談したいから小田原へ来るようにと申し入れた。金山城主由良国繁と足利と館林の城主の長尾顕長の兄弟は受諾して、小田原に赴いた。ところが、氏政・氏直父子は国繁・顕長兄弟を抑留して、佐竹氏攻撃のため金山・館林両城の明け渡しを命じたのである。しかし、兄弟がこれに応じなかったため、二月、三千五百の後北条勢が出撃し、厩橋などの地侍衆を加えて金山城に迫った。この事態に金山城では、国繁・顕長兄弟の母妙印尼が孫の貞繁を大将に据え将士を励まして、城の諸所を固めて後北条軍を待ち構えた。後北条氏は利根川を押し渡り金山城に押し寄せた。
戦いは城の西北の長手口、東南の熊野口などで一斉に開始され、寄手は遮二無二に攻めかけたが城兵によって五百余人の討死を出して退却した。金山城の奮戦に遭って氏政は一時兵を撤収して、国繁・顕長兄弟を帰したが、国繁は小田原からの圧力に屈して城を明け渡した。そのため国繁は桐生に、顕定は足利に退き、金山城へは北条氏邦の率いる北条方の在番衆が入り、館林城は北条氏規が城主となった。
●由良氏の没落とその後
天正十八年(1590)秀吉の小田原征伐の時、兄弟ともに小田原城に籠った。しかし、妙印尼は孫の貞繁を大将として二百の兵を集め、上野の松井田城を攻撃中の前田利家のところへ参陣、従軍した。小田原で秀吉に謁した妙印尼は秀吉から上総国牛久五千石の所領を与えられ、由良氏は滅亡をまぬがれた。
小田原落城後、国繁は豊臣秀吉に属し、秀吉没後は徳川家に属した。関ヶ原の合戦には東軍の一員として参加し江戸留守居を命じられ、戦後、新恩として千六百石を賜り旧知と併せて七千石を知行する大身となった。嫡子の貞繁は関ヶ原の合戦には永井直勝に属して出陣、大坂の陣には土井利勝に従って出陣、夏の陣では鴫野口の戦いで負傷したという。子孫は幕府高家に列し、曲折はあったものの明治維新に至った。
ところで、由良氏は新田氏から分かれたということで、「二つ引両」「桐」も用い、さらに「葵紋」も用いていたようだ。江戸時代、由良氏の葵紋と将軍家の葵紋が似ていたことから、登城の折、将軍家の一門と間違われたことから、意匠を「立ち葵に水」に改めて用いるようになったという。
●右家紋:立ち葵に水
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■参考略系図
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