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柳沢氏
四つ花菱
(武田氏一族)


 戦国大名武田氏の軍編成のなかに、旗本や、地方武将たちにひきいられる被官の同心、武士たち以外に、衆あるいは党と呼ばれる地域ごとにまとまった集団の武士たちがあった。その表現は、必ずしも一定したものではないが、ときにかなり自由に「衆」という表現が使われている。
 武川衆は、武河衆とも六河衆とも文書にみえる。その初見は、『甲陽軍鑑』によれば天文十一年(1542)桑原城普請のおり、板垣信形に武川衆を添え御預けなさるとあり、また後に典厩信繁につけられたともある。
 『甲斐国志』は武川衆について、石和五郎信光の末男、六郎信長という者が忠頼の家蹟を継いで一条氏を称し、その子に八郎信経があって、さらにその子一条時信は甲斐守護職に任ぜられた。この時信に男子十数人があって武川筋の各村々に分封され、それぞれ在名を名乗って子孫繁栄、のちに武川衆と号したと見えている。
 これを地図のうえから見れば、西から教来石・島原・白須・山高・牧原・青木などの土豪となり、さらに青木氏からは折井・柳沢・山寺氏などが分出している。

柳沢氏の歴史への登場

 柳沢氏は、青木十郎時光より六世の孫安遠の次男信興が柳沢村に封を受け、柳沢氏を称したのが始まりとされる。信興の兄青木義虎は、永正八年(1511)に五十三歳で没したとされるから、その弟にあたる信興は文明〜大永年間に青木家に生まれ、柳沢氏を起こしたことになる。とはいえ、これは『寛政重修諸家譜』に記されたもので、柳沢氏の発祥はこれより古いといわれる。
 甲府市の一蓮寺に所蔵される『一蓮寺過去帳』のなかに、永享五年(1433)四月の死者の法名が列記されているが、そのなかに「立阿弥陀仏 柳沢」の名がみえている。永享五年四月、武田一族の武田信長と逸見・跡部ら反武田の諸将が荒川河原で激戦を交えた。この活栓に信長方は惨敗して、柳沢・山寺らの武川衆の将をはじめ多くの将を失った。
 この荒川合戦に、立阿弥陀仏柳沢氏も武田方の武将として参戦し戦死したのであろう。これは、柳沢氏の発祥が寛政譜の記すところよりはるかに古く、応永年間以前であったことを示すものといえよう。おそらく、応永年間以前に青木氏から分派した柳沢氏の当主が永享五年に討死したため、文明〜大永年間(1469〜1521)に青木家がふたたび柳沢氏へ信興を送り込んだものであろう。したがって、柳沢信興は、柳沢家の始祖ではなく、中興の祖というべき存在であったものと考えられる。
 信興の嫡男が貞興で、武田信虎に仕え、信虎を支えて生涯を送った。貞興には信景と信房の二子があり、信景は天文十六年。信虎が駿河に追放されたとき随行し身辺を守ったが、のちに将軍足利義晴に仕えた。信景はのちに毛利氏に仕え、子孫は萩藩士として続いた。信景が国を立ち退いたため、次男の信房が柳沢の家督を継承した。「信州下之郷起請文」に署名した武川衆の領袖の一人に柳沢壱岐守信勝がいるが、おそらく信房と同一人物であろうと考えられる。
 信房の子信兼は武田勝頼子に仕えて武功があったが、天正八年(1580)上州膳城攻めのとき軍法に触れて自刃したため、長男信久は逃れて穴山氏に仕え、家督は弟の信俊が継いだ。信俊は知勇兼備の将といわれ、長篠の合戦では武田勝頼の側近にあって防戦にこれ努め、勝頼の危急を救った。勝頼が滅亡したあと、他の武川衆の諸将とともに徳川家康に属して各地に転戦した。

徳川家旗本として近世へ

 天正十八年(1590)家康が関東に封じられると、他の武川衆とともに祖先伝来の地である甲斐を離れ武州鉢形城に移った。このとき、知行として宛行われたのは百十一石余であった。のち百二十石を加増され、併せて二百三十一石となり子孫に伝えた。
 その後の柳沢氏は小禄ながらも徳川旗本として続いたが、将軍綱吉の時代に至って大飛躍を遂げた。すなわち、元禄時代に綱吉の側用人として活躍し、十五万石の大名にまで昇りつめた柳沢吉保が大飛躍の人であった。吉保のとき、赤穂浪士による「元禄事件」が起こり、一方の主役として暗躍したことは小説や映画などでよく知られるところである。子孫は、大和郡山十五万石に移封されて明治維新を迎えた。

■ 武川衆の情報


■参考略系図


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