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山崎氏
檜扇に四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流)


 山崎氏は宇多源氏の流れで、佐々木神主系の分流という。系図によれば佐々木源四郎大夫行家の子六郎憲家が 佐々木を改めて山崎を称したことになっている。憲家は武芸に長じて「弓矢を取りてその名を落とさず」といわれ、源頼朝に仕えて 近江国犬上郡山崎の地頭職に補せられ山崎を称した。とはいうものの、近江国犬上郡に山崎という地名はなく、滋賀県にも 該当する在所はない。
 『寛政重修諸家譜』には、「相模国山崎に住し、のち近江国に赴き、犬上郡山崎の城に住し代々 佐々木氏に属した」とあり、相模国山崎は鎌倉郡内山内荘山崎郷に該当するようだ。おそらく、源平合戦において源氏に 属して関東に没落を余儀なくされた佐々木一族の一人として、源頼朝の旗揚げに参陣、その功によって相模国山崎に 所領を得たのではなかろうか。さらに、佐々木氏発祥の地である近江国犬上郡に地頭職を得て移住、そのまま山崎を 地名とし居城も山崎城と称したものと思われる。
 憲家は建永元年(1206)に死去、九代氏定まで続いたのち「数代中絶」とあって、戦国時代、右衛門尉重家があらわれる。 中絶の間の山崎氏の動向は知れないが、一族は佐々木六角氏と佐々木京極氏とに分かれ、 それぞれ家名を保ったようだ。犬上郡山崎城に拠った山崎氏の嫡流は佐々木六角氏に属し、 『竹生島奉加帳』にも名がみえている。大永五年(1525)、六角定頼が北近江の京極氏に代わって台頭著しい浅井亮政を討つために出兵。山崎氏も 六角軍の一員として出陣、右翼の八条と後詰の箕浦にその名がみえている。

山崎氏の出頭

 代々、佐々木六角氏の被官であった山崎氏に大きな転機をもたらしたのが、永禄六年(1563)、 六角義治が重臣後藤父子を討った「観音寺騒動」であった。事件は主家を凌ぐ勢いをみせる後藤賢豊とその子壱岐守を 排除しようとしたもので、まったくの暴挙であった。これに怒った六角家臣団の多くは、六角氏を見限ってそれぞれ自分の 居城へと立て籠もった。後藤氏と姻戚関係にあった山崎片家も山崎城に帰って籠城した。この一件で六角氏は勢力を 大きく後退させ、永禄十一年、織田信長の上洛軍を迎えうつのである。六角氏のライバル江北の浅井氏は信長と 同盟関係にあり、山崎片家も信長に属して六角氏攻めに加わった。
 以後、片家は信長に従い、天正三年(1575)、長篠の合戦に出陣、つづいて越前国一向一揆攻めに参加、 翌年には大坂一向一揆攻めに大活躍を示した。天正五年、羽柴秀吉が中国攻めに出陣すると片家も与力として播磨に 在陣、翌年、荒木村重が摂津有岡城に籠って信長に叛旗を翻すと討伐軍に加わって奮戦した。さらに九年には 伊賀征伐に出陣、戦功をあらわした。八方に敵をかかえて苦闘する信長軍の一員として、片家は各地を転戦したのである。
 天正十年六月、明智光秀の謀反によって織田信長が京本能寺で横死した。そのとき、片家は安土城の二の丸を守備、 嫡男の家盛が居城山崎城を守っていた。ちなみに、安土城本丸を守っていたのは蒲生氏郷の父賢秀であった。片家は 一時的に明智光秀に属したが、ほどなく秀吉にくら替えし、山崎の合戦後、犬上郡山崎の地を安堵された。しかし、 山崎城は兵火に罹り、系図など多くの伝来文書を失った。 同年末、摂津国有馬郡三田二万三千石へ転封となり、豊臣大名の一員に列なった。
 山崎の合戦で明智光秀を討った秀吉は、つづいて柴田勝家を破り、信長の後継者として天下人への道を歩き出した。 片家は秀吉に属して小牧・長久手の戦いに出陣、続く九州征伐、小田原の役と秀吉の天下統一戦争に従軍、 着実に豊臣政権における地歩を固めていった。
 片家の嫡男家盛も父とともに信長・秀吉に仕え、片家の死後、家督を許され三田城主となり従五位下左馬允に叙せられた。 文禄元年(1592)の秀吉の朝鮮出兵に際しては、対馬の守護を任され海峡往来の兵站を受け持った。 さらに、肥前名護屋城西ノ丸の警護も命じられるた。翌々年、京都に戻って伏見城の築城に携わるなど、秀吉からの 信頼もあつかった。その子定勝(弟で養子か?)も秀吉馬廻りとなり、文禄の役には父に従って名護屋城に駐留、伏見城の築城も父と 同様に工事を分担するなど活躍、伊勢国八知竹原一万石の大名に取り立てられた。

近世に生き残る

 秀吉の没後、豊臣政権は徳川家康と石田三成との対立が表面化、ついに慶長五年(1600)、関ヶ原の役が起こった。 ときに三田にいた家盛父子は下野小山に陣する徳川家康に石田三成の「謀反」を連絡したが、三成からの催促を拒みきれず 西軍方として行動した。そして、家盛は丹後田辺城攻め、子定勝は伊勢安濃津城攻めに加わったのである。 戦いは西軍敗北に終わり、本来なら改易処分となるべきところであったが、池田輝政との姻戚関係をもって許され、 家盛は三田二万三千石を安堵された。さらに、七千石の加増を受けて因幡国若狭に移封された。一方、改易となった定勝は 豊臣秀頼に仕え、大坂城の役の前に死去したようだ。
 家盛のあと家督を継いだ家治は、慶長十九年(1614)の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣に徳川方として出陣、活躍した。 元和三年(1617)、大坂の陣の功によって、因幡国若桜から備中国成羽三万五千石に加増転封され、新田開発などに 尽力している。以後、福島正則が改易されたのちの備後三原城の守備、大坂城築城工事における石垣工事を担当するなど 幕府からあつい信頼をかちえた。そして、その手腕をかわれて寛永十六年(1639)には肥後天草 四万石への加増転封を受け、島原の乱で荒廃した天草地方の復興に功績をあげた。それらの功によって、同十八年には 讃岐国丸亀五万三千石に加増転封された。家治は丸亀城の築城に着手すると城下町の経営・整備を行ない、 今日の丸亀の基礎を築いたのである。
 家治の死後、嫡男俊家が家督を継ぎ丸亀藩主となった。俊家が三十代の若桜で死去すると、わずか三歳の嫡男治頼が 家督を継ぎ、叔父豊治が後見人となった。ところが、治頼は八歳で病死、嗣子もなかったため山崎氏は無嗣断絶、改易 処分となった。かくして、山崎氏は大名としての地位を失ったが、豊治が備中国川上郡成羽五千石を与えられ、 山崎氏の血脈を後世に伝えたのであった。

【主な参考文献:戦国大名諸家譜・寛政重修諸家譜・戦国大名370家出自事典 など】


■参考略系図
    

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