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山室氏
菱木瓜*/曜星
(清和源氏為朝流/千葉氏流か?)
*軍記などには七曜・九曜を旗紋に用いたと 記されているが、「関東幕注文」には山室 治部少輔の紋は「ひしもつかう」とある。


 戦国時代の上総国山辺郡に勢力をもった武将に、飯櫃城主の山室氏がいる。山室氏は『総州山室譜伝記』によれば、鎮西八郎為朝の子孫であるというが、真偽のほどは明らかではない。おそらく、千葉氏の一族であろうと思われる。いつのころか上総国武射郡山室村に住して山室を称し、上下総州六十二城の旗頭で、知行五十二万石を領したという。しかし、これは山室を身贔屓する伝記の「話十倍」というものであろう。
 山室城に拠って勢力を拡大した山室氏は、山室常隆の代の天文元年(1532)、飯櫃城を築いてそちらに本拠を移した。以後、山室氏は大台城主の井田因幡守、山中城主の和田伊賀守らを配下として、徐々に勢力を伸ばして行き、最盛期には芝山を中心として五万石程度の土地を領し、この地方有数の大名となった。そして、下総の千葉氏に属して行動したことが知られる
 弘治元年(1555)、山室常隆は多古城主牛尾胤仲と騎射のことで論争となり合戦に発展、山室常隆は牛尾胤仲の弟薩摩守を射殺、多古城を攻撃し城に火を放って奪い取った。しかし、城下の法性山浄妙寺に天正五年(1577)銘の牛尾胤仲の制札があることから、弘治元年の戦いは記録間違いであろうと思われる。
 ちなみに『多古由来記』によれば、弘治元年(1555)に牛尾胤仲は飯櫃城の山室氏、大原城の加藤氏らを攻めようと画策、多古城下高根真弘寺での騎射に招き謀殺しようとしたが、住職の重如坊の密告で失敗した。対する山室・加藤氏は協力して多古城を攻め、天正十三(1585)年二月六日落城、胤仲は討ち死にしたとみえている。

関東の覇王、後北条氏に属す

 ところで、小田原を拠点とした後北条氏が関東に勢力を拡大するのと反比例して、関東の伝統的勢力である古河公方、上杉氏らの勢力は後退していった。伝統勢力の衰退を決定付けたのは、天文十五年(1546)の「河越の合戦」であった。この戦いは上杉・古河公方が連合し、後北条方の河越城を攻撃したもので、北条氏康が寡勢をもって勝利したことで、古河公方、上杉氏らは守勢に立たされてしまった。追いつめられた関東管領上杉憲政は、越後の戦国大名長尾景虎を頼り、関東回復を願ったのである。
 長尾景虎は憲政の要請をいれ、永禄三年(1560)、越後軍団を率いた景虎は関東に出陣したのである。以後、関東の戦国時代は例年のように越山を繰り返す上杉謙信(長尾景虎改め)と、小田原北条氏とのお対立を軸として展開するようになった。はじめて関東に出陣したとき、謙信は麼下い参集してきた関東諸将の幕紋を記録した『関東幕注文』を作成した。幕注文は、十六世紀半ばにおける関東諸将の紋を知る、貴重な史料となっている。このなかに、山室治部少輔の名がみえ幕紋は「ひしもつかう(菱木瓜)ニにほひすそこ」と記されている。
 謙信がはじめて関東に出陣してきたとき、山室氏は千葉氏に属しながらも後北条氏方ではなく、上杉方に味方したことが知られる。幕注文にみえる房総の諸将としては、安房の里見・正木、上総の酒井・山室、下総の高城氏らが記され、山室氏が上総の大勢力であったことがうかがえる。
 謙信と後北条氏との抗争は、謙信が関東にいる間は上杉氏の勢力が拡大し、謙信が越後に帰ると後北条氏の勢力が拡大するというように、シーソーゲーム状態が続いた。しかし、次第に後北条氏の勢力が関東各地に及ぶようになり、天文二年(1574)の関東出陣を最後に謙信の越山が途絶えると、後北条氏は一気に関東の大勢力となった。

飯櫃城の死闘、戦国時代の終焉

 後北条氏が謙信と戦いながらも着実に勢力を拡大していく過程で、山室氏は後北条氏に属するようになったようだ。その結果、天正十八年(1590)、豊臣秀吉が後北条氏をを攻めた「小田原の役」で、後北条氏とともに滅びることになる。小田原の役において、飯櫃城は徳川の大軍に囲まれ、籠城むなしく城は落城したといわれている。
 伝えられるところによれば、小田原後北条氏が降伏すると、豊臣秀吉と徳川家康の部将らの連合軍が上総・下総の諸城を後略し、飯櫃城も攻撃にさらされた。飯櫃城では山室光勝が主将として、連合軍の降伏勧告を一蹴して籠城、連合軍を迎え撃とうと決していたのである。これに光勝の嫡子光慶・二男光重・三男の重昌、一門の山室弾正左衛門、同太郎、同監物三郎、家老の怒賀源太左衛門入道ら、さらに上下総州落城え生き残った諸将士らが加勢して、飯櫃城には八百余騎の武者が籠ったという。いずれも城を枕に討死との覚悟を決めていた。
 寄手は保科弾正忠直、同正光、同正之らを将とする一千余騎であった。戦いは寄手の放火から始まり、双方、手強い戦いを演じたが、飯櫃城にまで炎が及んだことで、ついに山室方の敗北となった。山室光勝は自害を図ろうとしたが、家老の怒賀入道に止められ、城を脱出した。しかし、途中で敵兵に発見され、進退窮まった光勝は自害をして果てた。ここに、上総の戦国大名として勢力を誇った山室氏も没落の運命となった。
 さて、山室氏のその後についてだが、飯櫃城落城のとき、嫡子光慶、一族の左馬頭、大蔵亮らは城を脱出した。のちに光慶の室が男子を生み、その男子は山室蔵人と名乗ったという。いまも山室氏の子孫は、芝山町において続いているという。

参考資料:総州山室譜伝記/芝山町史  ほか】

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■参考略系図
 


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