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豊田氏
不詳
(古代豪族後裔?)


 豊田氏は山辺郡豊田城(現天理市)を本拠とした国人で、天三降命の後裔と伝える。大和の中世は北和の筒井氏と南和の越智氏を軸として争乱が展開されたが、豊田氏は総じて筒井党とは敵対関係にあった。
 永享元年(1429)、衆徒豊田中坊と衆徒井戸某との間に対立が生じた。筒井氏は縁故関係を持つ井戸方に与し、十市氏も井戸氏を支援した。一方、国民越智氏、箸尾氏らは豊田氏を支援し、軍事衝突が起こった。これが大和一国を戦乱の坩堝に陥れた永享の乱の始まりである。豊田中坊は豊田氏の惣領家であったが戦乱のなかで没落したようで、代わって庶子家の豊岡(豊田)頼英が台頭した。頼英は大乗院領山辺郡匂田庄・田井庄などの下司公文職として勢力を拡大、やがて筒井氏や古市氏に次ぐ有力国人勢力に成長した。

歴史への登場

 豊田氏の全盛期を現出した頼英は、嘉吉三年(1443)の南都合戦で筒井党成身院光宣を追って奈良中雑務検断職のを掌握、康正元年(1455)からの四年間は官符衆徒の地位にあった。一方で頼英は東山内衆とも交流をはかって多田氏主催の染田天神講連歌会にも参加するなど、国中盆地から東山内にまたがって活躍した。
 応仁の乱が起ると、大和の国人衆も東西に分かれて対立関係となった。東軍方は筒井氏を中心に十市氏ら、西軍方には越智氏とともに豊田氏がいた。そして、乱の最中の文明七年(1475)、平群の国人島氏の息女が頼英の孫近江祐英の妻となっている。乱が終わったのちも、乱の要因であった両畠山氏の抗争が続き、大和の国人衆も否応なくその影響を受けた。そして、文明十四年、豊田氏は越智氏とともに畠山義就方に属していたことが知られる。

染田の郷

貞治元年(1362)、多田順実が創始した染田天神講連歌会は、戦国時代の永禄七年(1564)まで続き、豊田氏も参加していた。染田天神がある染田郷は「中世文学の里」として、また、染田石仏が祀られるなど、古き良き時代の名残りを伝えている。


 延徳二年(1490)、豊田頼英が八十八歳を一期として死去した。豊田氏にとって頼英の死は大きな損失であり、明応七年(1498)より筒井氏の反撃を受け、筒井順盛が越智氏を撃破した動きのなかで「豊田本城煙立」と記されて城が焼けたことが知られる。翌年にも「夜前豊田城辺焼亡了」(「大乗院寺社雑事記」)とあって、連年、豊田城が落ちたことが知られる。
 その後も豊田氏は越智党として筒井党と対立関係にあったが、永正三年(1506)、赤沢宗益の大和乱入に際しては筒井氏に与して宗益と戦い敗北、一族が戦死している。このころの豊田氏の当主は頼英の孫祐英と思われる、ついで、永正十七年(1520)、豊田澄英の名が『春日大赦文書』にみえる。豊田氏は豊田城を拠点として一定の勢力を弄していたようだが、その動向は不詳なところが多い。

豊田氏の終焉

 やがて永禄二年(1559)、三好長慶麾下の松永久秀を大将とする三好勢が大和に乱入、筒井・十市・万歳氏らは没落した。以後、大和は松永氏の攻勢にさらされることになる。そして、永禄十一年(1568)、豊田某は筒井氏とともに上洛しているが、豊田城を松永軍によって落されている。豊田氏は井戸氏の井戸城に立て籠もったが、元亀元年(1570)に松永氏に内応して井戸城を脱出、翌年の辰市合戦では松永軍に属して討死している。
 その後、松永久秀は滅亡し、大和一国は筒井順慶の支配下におかれた。天正十一年、伊賀攻めに出陣した順慶軍のなかに豊田某の名が見え、伊賀勢の夜討ちによって負傷したという。以後、豊田氏一族の消息は知られず、歴史の転換期にその姿を消してしまった。

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参考資料:都祁村史/大和史料/奈良県史=大和武士 ほか】



■参考略系図

 
  


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