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島 氏
●三つ柏*
●藤原姓  
・『関ヶ原合戦図屏風』に描かれた島左近の旗印から。  


 慶長五年(1600)、美濃国関ヶ原において天下分け目の大会戦が行われた。豊臣秀吉亡きのちの天下をめぐって、徳川家康と石田三成が戦った「関ヶ原の合戦」であった。この戦いにおいて、三成の参謀・軍師として采配を振るって、壮絶な討死を遂げたのが島左近清興である。
 島左近の生国については、大和説・近江説・対馬説など諸説があるが、大和説がもっともうなづける説である。島氏は鎌倉時代末期に大和国平群谷を本拠地として武士化し、奈良興福寺の一乗院坊人となった。『平群町史』によれば、「嘉暦四年(1329)春日行幸の設備用竹の在所注文に「平群嶋春●(雨カンムリの下に鶴の文字)」とその名があると見えている。KOREが、嶋氏の史料上の初見であり、島左近の祖先にあたる人物と考えられる。そして、はじめて見える島氏は「嶋」であったが、以下、島の表記で統一する。

島氏、平群谷の有力勢力となる

 その後、島氏は至徳年間(1384〜86)の『流鏑馬日記』に名が見え、ついで、応永十一年(1404)には『寺門事條々聞書』記載の国民に、曾歩々々氏らとともに見えている。おそらく至徳年間ころまでに一乗院坊人となったようだ。そして、『一乗院家御坊人名字依次有気之』の康正三年(1457)の条に筒井・井戸・越智・布施・箸尾氏らとともに島氏もみえる。さらに、『大和衆官領方引汲牢人』の文明十四年(1482)に「島文明十四入滅」とみえ、延徳三年(1491)の条には「平群島、木津執行祖父入滅云々」などと島氏の名が散見する。
 しかし、島氏の系譜についてはほとんど不明というのが実状である。『和州諸将軍伝』などの軍記物によれば、島氏は本姓が藤原で、筒井氏の七代の当主に仕えたとある。そして、左近の祖父を友保、父を友之として興福寺の塔頭・持宝院を庇護したといている。しかし、史料として信頼できる『多聞院日記』などの記述によれば、左近の父の名は豊前守となっている。おそらく、左近の父は豊前守が正しいものであろう。豊前守は、平群郡椿井城、西宮城を領有し、一説に天文十八年(1549)に没したという。
 ところで、平群谷の椿井城は椿井氏が拠っていたことが知られ、島氏は椿井氏を追って勢力を平群谷に築いたものと思われる。『姓氏家系大辞典』の椿井氏の項を見ると、「平群谷椿井より起る、文明年間(1469〜86)、椿井越前入道道懐あり、筒井と争い、島左内に滅されしが如し(後略)」とあり、島氏は左内の代に椿井氏を追って、椿井城を領有するようになったのであろう。その後、椿井氏は山城において活動していることから、平群谷における所領、拠点を失ったようだ。

島左近の登場

 永禄十年(1567)六月の『多聞院日記』によれば、平群島城へ「庄屋」が乱入、「親父豊前方は立出」たが、一族九人が生害に追い込まれたと記されている。すなわち、左近の父と思われる豊前は脱出したが、一族は自殺に追い込まれたのである。島城とは西宮城と思われ、庄屋とは島左近のことかも知れない。島氏の家督をめぐって一族間に内訌があったのであろうか。
 左近が生まれたのは天文九年(1540)と考証され、そのころの筒井氏の当主は順昭で、天文十八年に順慶が生まれた。左近は、順慶の九歳の年長であったことになる。
 筒井順昭は大和国のほとんどを制圧したが、天文二十年、二十八歳で急逝した。ときに順慶は三歳の幼児であった。幼い順慶を一族の筒井順政、福住宗職・順弘父子、箸尾高春、井戸良弘、そして重臣の松倉右近、島左近らがもりたてた。松倉右近と島左近は、筒井家の「右近・左近」と称される勇将であった。
 以後、島左近は筒井順慶に仕えて、大和進出に乗り出した松永久秀軍と十数年にわたって合戦を繰り返した。永禄八年(1565)には、筒井城が後略され順慶は布施城に奔り、左近は椿井城・西宮城に拠って松永軍と戦った。翌年、順慶は筒井城を奪還し、松永軍と攻防を展開したが、元亀二年(1571)に至って、織田信長の部将明智光秀の仲介で和睦した。
 以後、筒井氏は織田氏に属し、天正三年(1575)石山本願寺攻め、ついで越前一向一揆攻め、翌四年には再び石山本願寺攻めに従い、大和守護に任じられた。翌五年は、雑賀一揆衆攻めに出陣した。島左近はこれらの戦いにおいて、つねに筒井氏の先陣を承って奮戦を続けたと思われる。天正五年、松永久秀は信長に謀叛を起して信貴山城に立て籠った。筒井氏は信貴山城の支城片岡城を攻め、その年のうちに信貴山城は落ち久秀も滅亡した。この一連の戦いに、左近も筒井氏び従って参加していたことは疑いない。
 信長の天下統一への戦いは連続し、翌天正六年、筒井氏は羽柴秀吉軍に属して、播磨に出陣、さらに丹波へと転戦した。これらの活躍によって筒井順慶は、大和に十六万石を与えられ、郡山城を本拠とした。このとき島左近は筒井氏の家老として、一万石を与えられたという。

筒井氏からの退転、そして関ヶ原

 天正十年、本能寺の変で織田信長が殺害され、ほどなく明智光秀と羽柴秀吉の間で山崎の合戦が行われ、光秀を倒した秀吉が一躍「天下人」として台頭するのである。山崎の合戦において順慶は「洞が峠を決め込む」「日和見順慶」などと嬉しくない徒名を付けられたが、順慶が出陣したのは勝敗の決した二日後のことで、いわば濡れ衣であった。
 天正十二年、順慶が病死し、養子定次が筒井家を継承した。そして、翌年筒井氏は大和から伊賀に国替となり、伊賀上野城へと移った。左近もこれに従い、十五年には秀吉の九州攻めに筒井定次に従って出陣した。ところが、その翌年、島左近は父祖代々仕えてきた筒井氏を退転した。きっかけは島氏領の百姓と中坊秀祐領の農民の争いで、定次が秀祐に有利な判決をしたことにあった。
 その後、左近は蒲生氏郷に仕えて、小田原攻めにも出陣した。小田原の役後、蒲生氏郷は奥州会津に転封となったため、左近は蒲生氏を去り、石田三成の誘いを受けて三成に仕えるようになったという。三成は島左近を招いたとき、自分の知行の半分を左近に与えるという思いきった行動に出た。左近はこれに感激して、三成に仕えるようになったという。以後、左近は三成の参謀・軍師として活躍し、ついには関ヶ原の合戦で奮戦、討死を遂げるのである。
 左近には政勝、友勝の男子があったといい、政勝は関ヶ原の戦いに大谷吉継の軍奉行をつとめて奮戦、西軍の敗北とともに戦死した。友勝の最後は分からない。また、左近の娘のひとりは、柳生兵庫助利巌の側室となり、連也斎巌包を生んだことはよく知られている。とはいえ、島氏の男系の嫡流は断絶ということになった。島氏は大和の戦国時代を生き抜き、結局、多くの謎を残したまま歴史の闇に消えていったといえようか。・2004年07月13日

参考資料:島左近のすべて ほか】
お奨めサイト…・島左近〜平群谷の驍将〜
http://www.m-network.com/sengoku/sakon/index.html


■参考略系図
・詳細系図は不明。
 

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