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薬師寺氏
五つ石/薬師寺橘*
(秀郷流小山氏族)
*見聞諸家紋に記載されている。


 藤原氏秀郷流の小山氏の後裔という。小山長村の子政村(小山朝政の子ともいう)が薬師寺五郎三郎を名乗って薬師寺氏の祖となった。とはいえ、系図によってその出自は微妙に異同があるが、小山氏の後裔ということは間違いないようだ。歌人で武蔵守護代を務めた公義の名が知られている。
 薬師寺公義の後裔と思われる元長は、細川勝元に仕え、応仁の乱に際し文明二年(1470)摂津椋橋城を守って丹波の西軍の襲来に備え、勝元から感状を受けている。翌三年からは摂津守護代を務めたようだ。
 元長の後を継いだのが有名な薬師寺与一元一である。かれは、武家文人として知られ、教養豊かな人物であった。永正元年(1504)、元一は淀城に拠って、額田宗朝らと主君細川政元に背いた。政元は元一の弟薬師寺長忠らを派遣して元一を討たせた。攻防ののち、額田宗朝が討死、宗朝の兄四宮長能は自刃し、元一は捕われの身となった。元一はかつてみずからが建立した京都舟橋の一元院に幽閉された。元一は最後に臨み、つぎのようにいって切腹したという。

 皆々様ご存知のごとく
 我は一文字好みにて薬師寺与一名乗りも元一
 この寺も一元院と名付けたり
 されば腹をも一文字に切るべし
 …と。二十九歳であったと伝える。

 元一の弟長忠は兄元一を輔けて摂津を管理したが、永正元年の兄の反乱には同調せず、政元方として元一を攻め、その功により摂津全域の守護代となった。同四年細川政元の養子澄之を擁して政元を暗殺し、同澄元・三好之長を近江に走らせた。しかし、同年八月細川高国・政賢らに澄之の宿所を襲われ、澄之・香西元長らとともに討死した。
 長忠の後を継いだ国長は、永正五年以来摂津守護代に在任。大永七年(1527)山城山崎城を守り、細川晴元方の柳本賢晴と戦い敗れて摂津高槻城に走った。次いで晴元に降り、天文二年(1533)正月法華一揆を率いて摂津一向一揆を攻めた。同年五月より高国の遺子晴国と戦い、六月山城高雄で戦死。これ以後薬師寺氏は没落していった。


編年─薬師寺氏伝拾遺
薬師寺氏は橘姓と伝えられる摂津の武士で、細川惣領家の被官として文明年間(1469〜87)以来、摂津国の守護代を継承した。
応仁元年(1467)五月二十六日の早朝、薬師寺与一の率いる摂津国人衆の突撃が十一年間にわたる応仁の乱の幕を切って落とした。
薬師寺元長は、細川勝元に仕え、応仁の乱に際し文明二年(1470)摂津椋橋城を守って丹波の西軍の襲来に備え、勝元から感状を受けている。翌三年からは摂津守護代を務めたようだ。
文明三年(1471)、摂津守護代薬師寺与一が泉涌寺領潮江庄を押領していた。守護代官薬師寺元長は、遵行状に従わない郡代官に対して春日社兼興福寺領を同寺雑掌へ付け渡すよう命じた。
長享二年(1488)、守護代の薬師寺長盛は、浜郷代官山問光澄が武庫川堤料などを守護方に納めず百姓らに非分をはたらくので、名主たちに訴えさせると大乗院に伝えた。
永正元年(1504)、薬師寺与一元一は淀城に拠って額田宗朝らと主君細川政元に背いた。元一の弟長忠は兄の反乱には同調せず、政元方として元一を攻め、その功により摂津全域の守護代となった。
永正四年、政元の養子澄之を擁して政元を暗殺。同年八月、細川高国らと戦い、澄之・香西元長らとともに討死した。
長忠の後を継いだ国長は、永正五年以来摂津守護代に在任。大永七年(1527)山城山崎城を守り、細川晴元方の柳本賢晴と戦い敗れて摂津高槻城に走った。
享禄三年(1530)、細川晴元方の薬師寺国盛勢は、高国勢の朝がけをうけ二十四人が討死した。
天文八年(1539)、薬師寺与一が芥川山城主となった。
薬師寺家は代々備後守を称し、天文十四年(1544)、細川晴元が闘鶏を見物したときの供衆に薬師寺与一(元房)と高畠神九郎の名が見られる。
天文十六年(1547)、晴元方の薬師寺与一(元房)、三好長慶に芥川山城を追われる。





■参考略系図  
  


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