二見氏
不 詳
(清和源氏?)


 二見氏は、大和国宇智豊井庄二見郷(二見庄とも)を本拠とした大和武士である。その出自は、清和源氏佐竹氏といわれるが確証はない。二見にある大日寺の造営寄進状に源光長、二見文書に源光遠などの署名があることから源氏であることは信じてよさそうだ。

二見氏の登場

 二見氏が起こった宇智郡は大和の南西にあたるところで、大和の中心である奈良からは遠く隔たった辺境の地であった。 西隣の河内国とは金剛山から南に伸びた高山で遮られ、南西は高野山領の紀伊国隅田庄に接していた。宇智郡も大和守護に任じる興福寺の支配を受けたが、遠隔地であっただけに大きな制約を受けることはなかったようだ。そのような宇智郡の武士としては宇野から起こった宇野氏とその一族をはじめ、牧野・坂合部・野原・崎山(栄山)らの諸氏が団栗の背比べのように存在していた。
 元弘三年(1333)、後醍醐天皇によって鎌倉幕府が滅び、やがて南北朝の動乱時代を迎えると、宇智郡の武士たちの活躍が目立ってくる。宇野氏や坂合部氏らは南朝に与して行動、『太平記』にもかれらの活躍が記されている。ところが、二見氏の姿は南北朝時代の初期には見出すことはできない。
 二見氏の行動は『二見文書』から知られるが、文書の最初のものは延元二年(1337)、二見弥徳丸が後醍醐天皇から美濃国内に地頭職を賜ったものである。そして、二見氏と宇智郡二見郷との関係を示す文書は、正平年間(1346〜70)のはじめのころからあらわれてくる。このことから、二見氏は大和発祥の武士ではなく、二見郷の代官として入部、そのまま土着した武士であるようだ。
 「五条市史」では、二見氏は国外のもので、東大寺・興福寺、あるいは金峰山寺の僧徒であったものが、豊井庄の庄官として下向、土着した。宇野氏や坂合部氏らのように『太平記』にあらわれないのは、二見氏が宇智郡生え抜きの武士ではないことの傍証であるとしている。とはいえ、鎌倉時代から二見庄の庄官であったとすれば、大和源氏の流れも否定できないようだ。二見氏は二見庄に拠ったことで二見を称したのか、入部以前から二見を称していたのか、名字の起源が判然としないのである。いずれにしろ、二見氏は南北朝の動乱期に、忽然と宇智郡二見に登場したように思われる。
 二見氏が領した二見は紀州街道が通り、南側には吉野川が流れる水陸交通の要地であった。宇智郡でも開けたところで、おそらく市が立ち、大日寺の参拝客で賑わった、新興勢力である二見氏は二見の商業的利潤を背景にして実力を蓄えていったのであろう。

南朝方として活躍

 二見氏で名があらわれるのは美濃に地頭職を得た弥徳丸で光遠と名乗り、南朝方として活躍、従五位下遠江守に叙されている。さらに、紀伊・河内などに所領を得るなど、二見氏の基礎を築いた。光遠ののち、二見氏は越後守光長ついで左兵衛尉光家と続き南朝方として行動した。さらに、一族の左衛門少尉義方、掃部丞光範、弾正忠、右馬助らの活躍が知られる。二見氏は国外にも所領を与えられるなど、一大勢力となり、宇智郡における南朝方の有力武士団となった。
 そもそも、大和一国は守護が置かれず、興福寺別当職が守護に代わって大和一国を経営した。別当職は大乗院門跡と一乗院門跡のいずれかが任じられたが、両者の関係は険悪なものがあった。南北朝時代を迎えると、大乗院は北朝方、一乗院は南朝方に味方して、それぞれの門跡に連なる衆徒・国民らは合戦を繰り返した。宇智郡は一乗院の勢力が強く、宇智郡の武士たちはこぞって南朝に味方したのである。後醍醐天皇が吉野山に行宮を営まれたのは、一乗院が金峰山寺を支配していたことによるともいい、宇智郡は南朝にとって吉野から河内へ出る要路であった。
 情勢は南朝方の頽勢に推移し、攻勢を強める幕府は河内守護に畠山氏、紀伊守護に山名氏、大内氏らを任じて南朝の孤立化を図った。これまで、大和の辺境にあり、南朝方の膝元という場所にあった宇智郡は幕府からの圧力を受けることは少なかった。しかし、幕府権力の確立とともに宇智郡も安泰ではなくなってきた。さらに、山城守護も兼ねた畠山氏は宇智郡に勢力を及ぼすようになり、一方で大内氏が宇陀郡の地頭を兼ねるなど南朝方の頽勢は決定的となっていった。かくして、明徳三年(1392)、南北朝の合一がなり半世紀にわたった戦乱が治まった。
 宇智郡には河内・山城守護畠山氏が分郡守護として勢力を及ぼしたが、一乗院門跡が義満から宇智郡を安堵された ことで畠山氏の支配は終わった。一乗院は代官を送って宇智郡の支配にあたる一方で、国民二見氏に支配の 一端を担わせた。このころの二見氏惣領は、明徳四年(1393)の『二見文書』にあらわれる光門と思われる。一方、 大乗院は宇野氏を取り立て一乗院に対抗した。また、河内守護畠山氏もことあるごとに宇智郡に勢力を及ぼそうとした。
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写真:二見城址に立てられた説明板

乱世を生きる

 永享元年(1429)、大乗院衆徒豊田中坊と一乗院衆徒井戸某とが対立、筒井氏は井戸氏を応援し、越智氏は箸尾氏らと 豊田氏を応援したことで大和武士は二分されて相争った。世にいわれる「大和永享の乱」が勃発した。この乱をきっかけとして、大和は長い戦乱の時代がつづくことになる。
 嘉吉元年(1441)、将軍義教が赤松満祐に暗殺されて、幕府権力はおおいに失墜した。それに伴って河内守護畠山氏の 宇智郡進出が活発化した。ところが、畠山氏では持国の養子弥三郎と庶子義就との間で家督をめぐる内訌が起こると、 宇智郡の武士も否応なく巻き込まれていった。弥三郎方には宇野氏をはじめ坂合部・野原・三箇氏らが、義就方には二見・ 嶋野・栄山氏らが味方して、両派の争いが繰り広げられた。畠山氏の家督争いは、応仁元年(1467)、ついに応仁の大乱へと発展した。この間、二見氏では遠江守光秀、左京亮光遠らの名が、『大日寺文書』にみえ、大和争乱の時代を生きたものであろう。
 応仁の乱が終結した後も畠山氏の内訌は繰り返され、大和も戦場と化し、とくに宇智郡の武士への影響は深刻だった。 文明九年(1480)の誉田城の戦いでは、宇野・坂合部・野原氏らの大和武士が戦死している。その後も両畠山氏の抗争は やむことなく、幕府をも巻き込みながら泥沼化していった。その間、二見氏は義就系畠山氏に属して行動、永正から 天文のころ尚順に味方した二見源七が戦死、その子の松王(左衛門大夫、遠江守)は義英・在氏に従って父の遺領を 安堵されているが、長引く戦乱のなかで一族の分裂もあったようだ。
 やがて、畠山義英は畠山尚順に通じた家臣木沢長政に殺され、にわかに勢力を拡大した長政は信貴山に城を築くと大和に進出した。二見左衛門大夫はいち早く長政に属し、宇智勢を率いて出陣した。ところが、天文十一年(1542)に長政が戦死すると尚順に転じて本領安堵を受けている。まことに節度のない行動ではあるが、小武士団にとっては止むを得ない処世であった。

戦国時代の終焉

 弘治三年(1557)、宇智郡では打ち続く戦乱のなかで困窮した農民層を代表する地侍衆が連判して、 国衆宛に要求書を出した。対する二見左京亮光重ら国人衆たちも抗争をやめ大同団結して一揆を結び、 畠山氏の代官平氏に一揆で取り決めたことを申し入れ、心得させている。 いわゆる宇智郡惣一揆で、目の前の危機を乗り越えみずからの生活と権益を守ろうとしたのである。 当時、畠山氏の守護権力は末期状態にあったとはいえ画期的なことであった。
 永禄十一年(1568)、足利義昭を奉じて織田信長が上洛した。信長に通じた三好氏の重臣松永久秀は大和を与えられ、 信貴山に拠ると大和の支配に乗り出した。一方、三好三人衆は石山本願寺と結んで信長に抵抗、 二見治部と密蔵院は三好康長から味方に参じるように書状を送られ密蔵院が康長に従軍したようだ。 その後、足利義昭が将軍の座を追われ、康長は信長に帰伏した。密蔵院は高屋城主の畠山高政に属して、 三好党と戦うなど活躍を示している。このころの二見氏では密蔵院の活躍が目立つばかりであり、 おそらく農民の台頭もあって二見氏らは武士としての行動に少なからぬ制約をうけていたものと思われる。
 天正十年(1582)、本能寺の変で信長が斃れると、時代は大きく動いた。信長のあとを継いだ羽柴(豊臣)秀吉に よって天下統一がなると、かつて国人領主とよばれた在地武士たちは豊臣大名に仕えるあるいは浪人しながらも武士としての 人生を歩むか、武士を捨てて帰農するかの選択を迫られた。かくして、二見氏や坂合部氏の一族は武士を捨てたようで、 大和の中世は終焉を迎えたのであった。・2010年01月28日

●お薦めサイト:気分は国人
参考資料:奈良県史・五条市史・宇智郡誌・大和志 など】


■参考略系図
中世の武家においては力量のあるものが惣領となり、必ずしも嫡系による相続ということもなかった。 現在伝わる武家系図が分かりにくいのは、そのようなことが背景にあることを見逃せない。 二見氏も確かな系図が伝来していないようで、奈良県史、五条市史などの記事より作成した。
    

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