北奥の戦国大名和賀氏の「四天の重臣」のひとりとして知られている小原氏は、物部姓あるいは源姓などといわれるがその出自は不明である。そもそもは平清盛に仕えて、山城国小原(愛宕郡小原か)を知行したことから小原を称するようになったのだという。 他方、清和源氏の一族である里見義俊の五代の孫、が常陸の国茨城郡大茨(おばら)に住んで大茨氏を名乗ったことに始まるとする説もある。関東の兵乱を避けて奥州に流浪した忠義は、大茨から小原姓に改め、和賀氏に仕えるようになったのだという。 中世の武家の出自に関しては、大名クラスの武家であっても曖昧模糊としものが多い。おそらく、小原氏も本来は刈田郡小原の在地豪族であったと思われ、和賀郡に地頭として入部してきた和賀氏に仕えたと考える方が自然であろう。 小原氏の家系伝説 さて、小原氏が和賀氏と関係を持つようになったはじめについて、以下のような伝承がある。 平治の乱に敗れたのち伊豆に流されていた源頼朝は、伊豆伊東の代官伊東祐親の娘と親しくなり、やがて男子が生まれた。その子が三歳になった時、祐親が京都大番の任を終えて帰国した。祐親は娘が流人頼朝との間に男子をもうけたことが平家に知られることを恐れ、みずからの孫でもある男子を伊東の淵に沈めるよう、家臣斎藤五・斎藤六の兄弟に命じた。兄弟はあどけない幼児を殺すに忍びず、ひそかに相模国の曾我にかくまい、名も春若丸と改めて養育したのである。 治承四年(1180)、兵を挙げた頼朝は、平家を滅ぼすと鎌倉幕府を開いた。ある年、頼朝が信濃善光寺へ詣でたことを好機として、斎藤兄弟は春若丸との対面を訴えた。殺されたと思っていたわが子と対面した頼朝は、おおいに喜び頼忠と名付けて陸奥国和賀郡の領主に任じたのであった。斎藤兄弟は奥州に下向する頼忠に同行し、兄は八重樫源蔵、弟は小原次郎と改めたという。兄弟の名乗りの由来は、兄弟が頼朝に面会する前夜、兄が八本の樫が枕の上に生え、弟は三本の茨が頭上に生えた夢を見たので、これを吉兆として改姓したのだという。 とはいえ、和賀氏の出自を頼朝の落胤とするのは、後世、家系伝説として作為されたものである。現在では、刈田郡の地頭中条刈田義季の子義行が刈田郡から和賀郡に移され、地名にちなんで和賀氏を称したことに始まるとする説が受け入れられている。和賀氏は多田行義の代に和賀郡を給せられて、岩崎に居住、盛義・義治・宗義と続いたとする説が有力で、岩崎は黒岩郷の岩崎館と解される。しかし、確実な史料もなく、またのちに和賀氏が本拠とする二子城にいつごろ移住したのかも分からない。いずれにしろ、のちに北奥の戦国大名に成長する和賀氏が和賀郡に赴任したのは、牧官としての職掌であったと推測される。 和賀氏の家臣らもまた馬匹の管理などの職務を分掌していたと思われ、小原氏も和賀の東部の抑えとして牧畜の任を遂行していたことと思われる。 和賀氏に属して勢力を拡大 『小原系図』によれば、小原氏の祖は和賀氏の祖多田八郎忠頼を奉じて、建久八年(1197)、和賀郡に下向し忠頼は和賀郡領主職についたとあり、忠頼に供してきたのは成木重治、重継の兄弟であったとする。そして、重継の所領は狭良城・倉沢・安俵・谷内・小山田・太田・黒沢尻の七郷で、三百五十町歩であったと系図の註に記されている。 重継のあとを継いだのは二男の義範で、頼朝から御鎧一領と御太刀一振を下賜されたという。ついで建保六年(1218)には、将軍実朝より前々からの七郷を永く領主職地頭たるべきこと、忠頼を補翼すべきのことを陸奥守義時連署の奉書、御下文を拝領したという。事実とすれば、破格の処遇に預かったことになるが、系図にそのように記されているばかりである。先の忠頼の頼朝落胤伝説と考えあわせても、そのままには信じられない。 義範のあとは義直が継ぎ、そのあとは範継が継いだ。そして、太田・釜糠・赤坂の庶子家を分出している。範継の譜を見ると、主家和賀氏から陣代としての一旗の頭として陣旗を公認されている。小原氏は和賀氏に属して東和賀七郷を領する身分として、主家に代わって陣代として河東の治安を預かったのであろう。建治二年(1276)、和賀氏が稗貫郡金矢の郷主金矢周防守と戦ったとき、小原範継は和賀軍の一翼を担って出陣している。 元弘三年(1333)、鎌倉幕府が滅び、建武の新政、南北朝の争乱を経て、室町時代に至った応永年間(1394〜1427)、小原時義は狭良城郷から安俵郷に本拠を移している。時義は二男であったが、病弱の兄政継に代わって家督を継いだもので、系図によれば時義の代より安俵を称したとある。その後、時義は兄政継の子政忠に家督を譲っている。小原氏は代々農業振興に心を注ぎ、西堀を用水堀にしたり用水を引いたりして領内の振興につとめ、その一方で丹内山神社を再興するなど信仰心も厚かったことが知られている。 戦国争乱の時代 文明三年(1471)、和賀定義は葛西政信と相去沢で合戦したが大敗を被り、この合戦で安俵城主越中守義望が戦死したという。このとき、義望の弟義氏は奮戦して敵将を斬り、その功によって戦後四万八千刈の所領を給され、倉沢古館を修築して居住したと伝えられる。 義望のあとは叔父にあたる義忠が継ぎ、義忠のあとは行秀が継ぎ、行秀の流れが小原氏の嫡流となり戦国時代に至った。天文六年(1537)和賀行義が南部氏と紫波郡郡山で戦ったとき、小原義秀は和賀氏の軍監として出陣し奮戦したという。義秀は戦国末期の天正八年(1579)六十七歳で死去したことが系譜に記されており、主家和賀氏を支えて多難な時代を生きた人物であったことが偲ばれる。 義秀のあとを継いだ忠秀は玄蕃を称し、安俵玄蕃として知られる。忠秀の代になると、戦国時代も終末期を迎え、和賀氏を取巻く状勢も大きく変化していた。北奥では南部氏、中奥では葛西氏が威勢を振るい、それに挟まれるカタチで稗貫・和賀氏らが割拠していた。他方、中央政界では織田信長が天下統一を大きく進めていたが、天正十年(1582)六月、本能寺の変で横死した。信長のあとを継承した羽柴(豊臣)秀吉は九州を平定し、天正十八年(1590)には豊臣秀吉は小田原北条氏攻めを行い、北条氏を降すと奥州仕置を行った。 この激動のなかで和賀氏らの北奥諸勢力は翻弄され、小田原参陣を怠った葛西・大崎・和賀・稗貫氏らの諸大名は所領没収、城地追放の処分を受け、にわかに没落の運命となったのである。 その後、慶長五年(1600)、和賀忠親は伊達政宗の煽動もあって和賀氏の再興を目論み旧臣らを糾合して「和賀一揆」をおこした。小原忠秀もこれに馳せ参じ、南部氏が守る安俵城を攻めたが敗北、翌慶長六年に主君忠親とともに仙台で切腹した。かくして忠秀は主家に殉じ、小原氏は没落の運命となったが、残された系図などから小原安俵氏は房継、実模と続いたことが知られる。・2006年07月20日 【参考資料:東和町史 / 岩手県史 ほか】 ■参考略系図 ・『東和町史』『岩手県史』所収の系図から作成。 |