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塩谷氏
三つ巴
(藤原北家宇都宮氏流)


 塩谷氏は宇都宮業綱の二男朝業が分家して、塩谷を名乗ったことに始まるとされている。ところが、朝業は清和源氏義家流の塩谷氏を継いだというのである。八幡太郎義家の嫡子義親は罪人として平正盛に殺され、その子頼純は流人同様のかたちで、下野国塩谷郡に居住した。そして塩谷氏を名乗ったのである。頼純の孫惟頼は、頼朝の平家追討の軍に加わり、弟惟広とともに活躍、その戦功によって、喜連川十五郷を賜わり、同じく塩谷氏を名乗った。
 その後、正義、朝義と続いたが、嗣子に恵まれず、宇都宮業綱の二男竹千代を養子として迎かえ入れた。竹千代は実父と養父の名前のそれぞれ頭の一字を取り合わせて朝業と名乗ったという。ここに源氏系塩谷氏から藤原氏系塩谷氏となったのである。
 朝業は御前城に住したが、後日、川崎城を築城して移住し、旧城は支城の一つになり、戦国末期に塩谷義道の居城となっている。朝業は兄の宇都宮頼綱と同様歌人としても知られ、とくに頼綱の室が将軍実朝の母である北条政子の妹ということもあってか、御家人として実朝に仕え、歌の相手をしていたようである。将軍実朝が暗殺された翌年出家して信生と名乗り、兄蓮生とともに歌と信仰に生き、浄土宗の祖法然の移葬の際なども兄に従って奉仕した。かれが東海道を旅した際の紀行文『信生法師集』などは、同時代の『東関紀行』「十六夜日記』などに劣らぬ独特の味のある名文として賞賛されている。

宇都宮氏一門の重鎮

 朝業から十三代目の教綱のころ、宇都宮宗家に男子がなかったことから、同族の武茂氏から持綱が養子となって宗家を継いだ。教綱はこれを快しとせず、川崎城近くの梨木坂で持綱とその家臣を謀殺したとも、逃れたさきの甲斐国で討ち取ったともいわれる。その後、長禄二年(1458)五月、宇都宮城へ誘い出され、城中で謀殺されてしまった。ここに朝業以来の塩谷氏は滅亡した。
 塩谷氏は宇都宮氏十七代成綱の弟孝綱が再興し、以後重興塩谷氏となる。孝綱の時代は戦乱の最中であり、那須氏対宇都宮氏の戦いに巻き込まれ、天文十八年(1549)の早乙女坂の合戦、天正十三年(1585)の薄葉ケ原の合戦などに出陣して、激しく那須方と戦った。
 孝綱の後は、嫡子由綱が継ぎ、二男の孝信は喜連川城代となった。ところが、孝信の妻は那須氏の大将大関高増の娘だったことから、兄弟は敵味方に分かれた。そして、孝信が配下を引き連れて、暗夜にまぎれて川崎城に忍び込み、火を放って攻めたため由綱は自殺、六歳の嫡子弥太郎は家臣らに守られて、宇都野の鳩ケ森城へ脱出、二年後に帰城という事件も起きた。
 豊臣秀吉の小田原征伐に際して、塩谷義綱は重臣岡本讃岐守を代理として参向させたが、その岡本が義綱の反逆を秀吉に訴えたことから改易され、その遺領の一部は岡本氏の所属となった。義綱は縁戚である常陸佐竹氏を頼り、関ヶ原の合戦後、佐竹氏の移封に伴って秋田に移り、家老格となって明治維新まで続いた。
 塩谷氏代々の氏神は、木幡神社で、楼門、本殿ともに国の重要文化財になっている。

参考資料:塩谷町史/史跡めぐり栃木の城  ほか】

●宇都宮氏の家紋─考察



■参考略系図
 


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