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浦 氏
三つ巴
(桓武平氏良文流小早川氏族)


 浦氏は桓武平氏小早川氏の一族。戦国時代毛利水軍の提督として活躍した浦兵部宗勝の名が有名。宗勝は同じ小早川氏の一族乃美家氏の次男として生まれ、浦元安の養子となりその名跡を継いだものである。
 毛利水軍の武将として宗勝の名がはじめて戦史にあらわれるのは、天文二十四年(1555)である。厳島囮城の防備を巡視中、陶氏の軍船に襲撃されて危機に陥った毛利元就をみて救援に漕ぎ寄せ、奮戦の末、敵船を撃沈した。ついで同年六月小早川隆景の命で陶晴賢の本拠周防国富田浦に出陣して若山城を威嚇している。
 厳島合戦では、おりからの暴風雨を衝いて小早川水軍を率いて出陣したが、敵船は嵐の難を避けるため、船筏を組んでいて厳島に漕ぎ寄せられない。そこで、宗勝は闇夜をさいわい、「筑前国から陶殿の加勢に漕ぎ寄せた宗像・秋月のものである」と叫び、敵をまんまと騙し、隆景に率いられた陸戦隊を厳島へ上陸させることに成功し、厳島合戦の勝利に貢献した。
 厳島合戦に続く毛利氏の防長経略でも、宗勝は周防灘や関門海峡の海上封鎖に活躍。弘治三年、毛利軍に追い詰められた大内義長の豊後への逃亡を阻止した。防長経略に続く尼子攻めでも、赤間関から長門の北海岸線を封鎖して、豊後の大友氏と出雲の尼子氏の連絡を断ち、その輸送路を遮断した。
 永禄二年(1559)から四年にかけての門司合戦と、同十一年から翌十二年に続く筑前立花城の攻防で宗勝が勇名を轟かせたことは『毛利戦記』に詳しい。その間、永禄十一年に毛利氏が伊予の河野氏を救援するために四国に出陣したとき、宗勝は宇都宮・一条の連合軍を撃破して、敗走して大洲城に籠った敵軍を破って大洲城を落としている。
 天正四年七月大坂木津口海戦で総司令官を努めたあと、同七年、小早川隆景に命じられて織田軍に包囲された播州三木城への兵糧補給を行っている。しかし、天正十年になると、中国攻めにやってきた豊臣秀吉の勧降戦略に頭を悩まされることになる。秀吉にとって強大な毛利水軍を打ち破るためには、それを支える瀬戸内水軍を味方につけることと考えた。そしてその調略の標的がほかならぬ宗勝とその嫡子盛勝であった。とくに秀吉は盛勝に強く働きかけた。このため、盛勝は隆景の疑惑を受け、ついには謎の死をとげている。
 宗勝は、秀吉の勧誘にも心を動かさず、天正十三年の四国攻め、同十五年の九州征伐に隆景の将として従軍している。文禄元年、朝鮮の役が始まると宗勝も隆景に従って渡海している。しかし、戦場で中風を病み帰国、同年九月他界した。


■参考略系図


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