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海上氏
月九曜
(桓武平氏千葉氏族)


 海上氏は「うなかみ」と読む。千葉氏の一族である東氏の流れを汲み、下総国海上郡海上庄を名字の地よする。二流の海上氏があり、千葉介常胤の叔父・常衡から派生した海上氏と、千葉介常胤の六男・胤頼を祖とする海上氏とである。
 常衡は隣接する千田庄の領家判官代・下総藤原氏と深い関わりをもち、下総藤原氏は縁戚である平清盛の威光をもって下総全域、特に東総域をその支配下におさめていた。海上常衡は下総藤原氏との関係で常陸の佐竹氏、常陸大掾家とも密接な関係を持ち、下総藤原氏・佐竹氏と対立関係にあった兄の千葉常重とは疎遠であった。
 しかし、源頼朝の挙兵に際し千葉常胤をはじめ、房総平氏の惣領・上総介広常までが加わったため、藤原親政は千葉氏を攻めるべく千葉庄に攻め入ったが千葉介・上総介の連合軍に大敗を喫した。おなじく親政に属していた海上氏ら下総平氏は、常胤らによって滅ぼされることになった。
 常衡流海上氏が滅ぶと、その所領であった海上郡一帯は常胤の六男・東胤頼に継承されることとなった。胤頼はすでに水運上でも重要な場所であった香取郡東庄桜井に館を構えて「東」を称していたが、海上郡をも領することとなり、彼の嫡男・重胤は次男・胤方、五男・胤有、七男・胤久らを海上郡内に派遣して東氏流海上氏が成立した。

関東争乱と海上氏

 胤方の孫・胤泰は、兄・横根教胤を差し置いて三崎庄中島城・飯沼城を受け継いで海上惣領家となり、その子海上師胤は応安三年(1370)八月、鎌倉に在府中、名僧・義堂周信と接触しており、その子・公胤は鎌倉公方の奉公衆となっている。
 公胤の子・海上憲胤と孫・頼胤は鎌倉公方・足利持氏の近臣として鎌倉府に出仕し、「上杉禅秀の乱」では足利持氏に味方して禅秀らと戦い、武名を挙げた。この時、禅秀に味方していた宗家の千葉介満胤・兼胤親子とは敵味方となったが、禅秀の敗北後、足利持氏と千葉氏の和解が図られ、憲胤親子は奉公衆を辞して千葉宗家に従うこととなったようである。この持氏と千葉氏の調停には、千葉氏と密接な関係があった竜崎氏・島崎氏・木内氏、海上憲胤(いずれも鎌倉府奉公衆)らが重要な役割を担ったようだ。
 このあとにおこった足利持氏と上杉憲実の紛争「永享の乱」に際して、憲胤は千葉宗家と行動をともにして持氏に荷担せず、幕府の大軍に攻められた持氏は敗死した。さらに、結城氏朝と持氏遺児の安王・春王が幕府軍に抵抗した「結城合戦」では、憲胤の子・頼胤が千葉介兼胤に属して結城城を攻撃して武名をあげている。
 その後、幕府の許しを得て持氏のあとを継いだ足利成氏は、敵対した海上頼胤の所領・下野国天命を没収し、持氏とともに戦死した印東常貞の子印東下野守に与えている。 鎌倉公方から海上氏は、いわゆる報復を受けたのであった。
 以後、子孫は千葉宗家と密接な関わりを持ち、室町時代後期には千葉介昌胤の子・胤富が養子として下総国香取郡森山城へ入り、その後、胤富が千葉介として宗家を継ぐことになったため、弟・胤盛が養子に入った。その子の胤保の代、天正十八年(1590)の小田原合戦で北条氏が滅ぶと海上氏も運命をともにして滅亡した。

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■参考略系図


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