土岐氏の後裔とされている。戦国時代、土岐源三郎持益の子・氏義が美濃より遠江国植村に移り住み、明応年中に植村と号した。その後、三河国に移り住み、松平長親に仕えたと伝える。 氏義の子氏明は、家康の祖父・清康に従い、尾張守山の陣中、主君清康が近臣阿部弥七郎の凶刃にたおれたとき即座に弥七郎を討った。清康の子広忠も近臣の岩松八弥の凶刃に倒れた。そのときも殺害した八弥を組みとめて、その首を挙げるという奇功を残した。 しかし、これらの奇功は、氏明はもとより植村氏が松平氏にとって縁起の悪い存在と印象づけたということにも繋がったようだ。そして、氏明はのちの沓掛の城攻めのさいに討死している。 そのあとを継いだ家存・家次の父子二代は家康に仕えた。そして、家次は家康の嫡男信康に属したために、信康の自刃のことがってのちは諸国を放浪した。その後、榊原康政の推挙により召し返されたが、そこに至るまでの苦労のためか三十三歳の若さで世を去った。 家次の嫡子家政は家康・秀忠に仕えたが、知行は千五百石に過ぎなかった。家次は寛永二年(1625)大番頭に進み、三代将軍家光に付属された。そうして忠勤に励み知行五千石、さらに加増を受け九千石となる。同十年、家光は品川御殿において諸番士の馬揃いを行った。それぞれ晴れの衣装に身を包み台覧に浴した。なかでも家政の姿は際立っており、家光から褒詞されたという。 これが理由か、同十七年には大和高取城を給わり高市郡内で二万五千石を領する大名に出世した。この家政の急な出世は、入国の行列に従うものが七十名に過ぎず、途々人を雇い入れる始末であったという。また、このような出世の背景に家光への忠勤はさることながら、父祖の功に対する恩賞の薄さが家次に至って報われたということもあったといわれる。以後、代々封を襲いで明治維新に至った。 一方、氏明の弟・泰基の子泰忠は幼にして父を失い寺に預けられたたが、元亀三年(1572)、三方ケ原の合戦に家康に従い武功をたてた。はじめ遠江国に采地をうけ、還俗して土佐守泰忠と称した。天正十八年(1590)小田原征伐にも出陣し、家康の関東入国後上総勝浦で三千石に封じられ、のち二千石を加増され勝浦を居所とした。以降、泰勝・泰朝・忠朝と襲封し、大番頭などを歴任した。忠朝のときに、一万一千石となり大名に列した。 ■参考略系図 |