『寛永系図』によれば、新羅三郎義光の後裔小笠原氏の一族とみえ、某が信濃国小県郡上田に住み、地名により上田を称したのが始まりとされる。また、『寛政重修諸家譜』には武田氏の一族で、外家の氏を冒して小笠原と称し、重安のときに上田に改めたと記されている。いずれにしても、信濃国上田から起こった、清和源氏の裔のひとつであろう。 歴史的に認められるのは、丹羽長秀に仕えた弥右衛門重氏からで、その子重元、孫の重安と長秀に仕えた。 重安は、長秀が卒したあと、豊臣秀吉に仕え越前国で一万石を給された。天正十五年(1587)の九州征伐、同十八年の小田原の役、文禄元年(1592)の朝鮮出兵に従軍。同二年、豊臣氏蔵入地代官となる。同三年には叙位・任官して豊臣の姓を許された。 慶長五年(1600)の関ヶ原の役には西軍に属して北陸で戦い、戦後所領を没収され、逃れて蜂須賀氏の庇護を受け、徳島城下に千秋閣庭園を造営した。このころ剃髪して宗箇と号した。のち、紀州和歌山の浅野幸長に招かれ一万石で仕え、粉河寺庭園を造営したりしている。大坂冬・夏の陣には、幸長の弟長晟に従って出陣した。元和五年(1619)、浅野氏の広島移封に従い、亀居城を預かり一万七千石を与えられた。 重安は、若いころから千利休に茶の湯を学び、利休の没後は古田織部の門弟となった。このように重安は、武将としての勇猛さだけではなく、茶人として作庭家としても優れた足跡を残している。晩年は領内に草庵を営み、茶の湯三昧の生活を送った。 重安の嫡子重秀が家督を継いだが、のちに家光に召し出され、旗本に列した。浅野家に残ったのは次男の重政で備前を称し、子孫は安芸浅野氏の家老職を世襲した。重安が過ごした広島には、いまも上田流の家元としての血脈と、重安(宗箇)ゆかりの遺品が伝えられている。 武蔵国に扇谷上杉氏の重臣、のちに小田原北条氏に仕えた上田氏があった。こちらの上田氏は武蔵七党のうち西党の裔とされている。上田朝直は後北条氏に仕えて、武蔵松山城主。他国衆として相模東郡栗橋郷、武蔵比企郡野本・福田で四百七十一貫四百七十文を領していた。 朝直の跡は長則が継ぎ、武蔵松山城主も受け継いだ。長則は松山城下町の経営を押し進めたことで知られる。その跡を受けたのは弟の憲定で、兄長則と同様に城下町経営を進め、天正十三年(1585)には手狭となった本郷本宿に加えて新市場を創設した。 天正十八年、豊臣秀吉の小田原攻めに際して、憲定は小田原に籠城したが、北条氏没落のあとの行動は不明である。おそらく、武士を捨てて帰農したのであろう。 ■参考略系図 |
●Ver.1 系図
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