鵜殿氏は藤原実方の末孫といわれる。その鵜殿氏がいつごろ三河蒲郡地方に勢力を伸ばしたのかは明らかではないが、源頼朝のころ、紀伊新宮の別当の子が取り立てられて西ノ郡(蒲郡)を与えられたという記録がある。また別の記録では、その祖は熊野七人衆のひと常香の孫とあり、また、熊野別当湛増の後裔ともされている。 紀伊新宮の鵜殿という所に住したことから鵜殿を名字にするようになったという。そして、航海に長じて熊野灘を盛んに往来するなかで、三河地方とも交流を深めていったものと考えられる。 鎌倉時代には竹谷・蒲形荘が熊野社領であったという記録が『吾妻鏡』にあり、一方蒲郡市にある勝善寺の梵鐘には熊野別当の永範・行範の名が鋳られている。神社でも熊野との関わりを示す大宮神社、神倉神社などが存在している。 三河の国人領主に成長 戦国時代、鵜殿氏一族は国衆として神ノ郷・下ノ郷・不相・柏原といった地に勢力を張った/なかでも本家の所在した神ノ郷は、弥生時代以来蒲郡地方の中心地域であり、平安時代には延喜式内社の赤日子神社も存在する歴史の深い地でもあった。 永禄三年(1560)の桶狭間の合戦はこの地の勢力地図を大きく変えた。それ以前の戦国時代、岡崎の松平信光はその庶子を分立させ、この地方への進出に成功していた。しかし、家康の頃には蒲郡地方の全域は今川氏の支配領となり、鵜殿氏も松平氏もともにその被官となって戦場を駆け巡っていた。 桶狭間の合戦により、今川勢力は三河から撤退し、一方家康は独立し、この地への進出を伺い始めた。 このような時勢にあって、鵜殿氏本家の長照は、父長持が今川義元の妹を妻とし、義元の子氏真とは従兄弟の関係であったことから今川氏と深く結び付いていた。それゆえ、竹谷松平清善とは異父同母の関係であったが次第に対立を深めついには戦いが繰り広げられることとなった。他の鵜殿氏は傍観の立場をとり、長照は一族から孤立していった。 永禄三年以後、長照と清善は激戦を交えたが、ついにその二年後、家康の助けえを得た清善は神ノ郷城を落とすことに成功した。家康は神ノ郷城を見下ろす名取山に陣を敷き、忍者をもって城に火を放ち、その混乱に乗じて長照を討ち取ったのであった。その際、長照の二人の子は生け捕りにされ、やがて駿府で人質同様になっていた築山殿と信康と交換し、妻子を無事岡崎に取り戻したのである。 こうして鵜殿氏の本家は衰亡したが、庶家の長忠は徳川家に仕えて子孫は旗本家として名を後世に伝えている。 ■参考略系図 ・熊野別当系図・蒲郡市史・鵜殿村史などから作成。 |