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津久井内藤氏
●下り藤
●藤原氏秀郷流  
 


 中世、北方を武蔵国、西方を甲斐国に接する相模国愛甲郡の北部にある宝ヶ峰(城山)に津久井城があった。津久井城は八王子から厚木、伊勢原、古代東海道を結ぶ八王子道と、江戸方面から多摩丘陵を通り津久井地域を東西に横断し甲州街道に達する津久井往還に近く、古来重要な水運のルートであった相模川が眼前に流れる文字通りの交通の要衝の地にあった。
 津久井城の築城は、鎌倉時代三浦半島一帯に勢力を誇っていた三浦一族、津久井氏によるというのが通説となっている。津久井氏は築井氏とも書き、鎌倉時代に三浦大介義明の弟二郎義行が三浦郡津久井村を領し、津久井を名乗ったことに始まる。やがて、鎌倉時代初期に愛甲郡北部の地は津久井氏が領するところとなり、義行の子為行(一説に築井太郎二郎義胤とも)が宝ヶ峰に築城、以来、津久井と呼ばれるようになったと伝えられている。しかし、この説はそのままには受け取れないものである。
 三浦氏は三浦半島を本拠とした一族で、津久井氏の津久井は現在の横須賀市津久井から起こったもので、いかに三浦氏の勢力が大きかったとはいえ、相模の北方に位置する津久井にまで勢力を拡大していたとは考えられない。しかも、津久井の一帯は武蔵七党の一で、平安時代末期には横山党が割拠していたことが知られている。これらのことから、津久井城を築いたのは三浦党の津久井氏ではなかったとした方が自然ではなかろうか。
 加えて、「津久井」という地名が確実な史料に現われるのは、『光明寺文書』のうちの内藤大和入道の寄進状で、大永四年(1524)のものある。それ以前の津久井周辺は、「奥三保」と呼ばれていた。戦国時代にも奥三保と呼ばれていたことは、石楯尾神社に残された文亀三年(1503)銘の棟札などから知られる。また、十五世紀の文明年間(1469〜1487)の「長尾景春の乱」において景春に与した海老名・本間氏らが奥三保の山中に籠り、大田道灌の軍勢と合戦している。このとき、海老名・本間氏らが拠った城は、津久井城であったのかどうかは不明である。

内藤氏の登場

 戦国時代になると、津久井=奥三保の地は相模国と甲斐国を結ぶ交通の要衝となり、小田原北条氏と甲斐武田氏がたびたびしのぎを削った。甲斐の妙法寺の記録である『妙法寺記』によれば、「大永四年(1524)、国中の勢が猿橋の御陣にて働き、奥三保へ働き矢軍あり」とみえ、ついで「大永五年、武田信虎と北条氏綱とが合戦、いまだ津久井の城落ちず」とある。津久井のあたりが「奥三保」と呼ばれ、そこにあった城が「津久井城」と呼ばれていたことが知られる。
 大永四年から五年にかけて、甲斐の武田信虎が奥三保に入り津久井城を攻めたが落ちなかった。そして、津久井城は後北条方の城で、城主は先の『光明寺文書』にみえる内藤大和入道であった。
 津久井城主内藤氏は北条氏の重臣として、関東の戦国時代を生きたが、その出自、系譜に関しては不明なところが多い。わずかに、藤原秀郷の子孫と称する内藤氏の末と伝えているばかりである。内藤氏の出自を『城山町史』は、文治三年(1187)京都の治安維持にあたった御家人の一人である内藤四郎の家人内藤権頭親家であろうとしている。のちに鎌倉に下った権頭親家は、雪之下に屋敷を与えられて居住した。
 この権頭親家の子孫が鎌倉幕府滅亡後の南北朝の内乱期を生き抜き、室町時代にいたって鎌倉公方足利持氏に仕えた。その後、永享の乱、享徳の乱と続いた争乱で、鎌倉公方家が幕府と対立を続けるなかで、上杉氏に仕えるようになったようだ。
 さて、津久井内藤氏は大和入道のあと朝行─康行─綱秀─直行と続いたとされる。朝行の「朝」は扇谷上杉氏からの一字拝領で、康行の「康」は北条氏康からの一字拝領であろうと思われる。このことは、大和入道・朝行父子の代までは、扇谷上杉氏に属して相当の身分にあったとみられる。そのことは『快元僧都記』にみえる内藤左近将監(朝行か?)が、北条氏綱が発願した鶴岡八幡宮の再建費用の協力に応じなかったことからもうかがわれる。

津久井内藤氏の発展


 その後、小田原を拠点とする後北条氏が扇谷上杉氏を圧迫するようになったことで、後北条氏に属するようになった。そして、天文十年(1541)以降に津久井方面に移り、津久井一帯を支配する戦国武士団に成長したものと考えられる。
  天文15年(1546)、小田原北条氏の勢力拡大を危惧した関東管領山内上杉憲政は駿河今川氏と結び、扇谷上杉氏、古河公方を誘って、北条方の河越城を包囲した。これに対して、北条氏康は寡勢をもって対抗、翌年、十倍ともいう伝統勢力連合軍を撃破した。世にいわれる河越の戦いで、一躍、北条氏康は関東の覇者に躍り出た。この戦いに内藤氏がどのように行動したかは不明だが、後北条方にあったものと思われる。そして、朝行の子康行は氏康から一字を賜る後北条氏の重臣に列らなったのであろう。
 内藤氏が北条氏家中にあって相当の重臣であったことは、残された内藤氏関係文書からも確実である。伝えられた文書は二十四通だが、何万人もいた北条氏家臣のなかで、独自の文書を発給した内藤氏は、後北条氏の一族につぐ立場で遇されていたことを物語っている。
 一方、永禄二年(1559)に北条氏康が作成した『北条氏所領役帳』には、津久井衆として内藤左近将監「千二百二貫」とみえている。ついで、天正十八年(1590)の『北条家人数覚書』には「内藤 つくいの城 百五十騎」とあり、相当の地位にあったことを裏付けている。また、豊臣秀吉が小田原陣に先立って作成したという『関東八州諸城覚書』にも「つく井 内藤」とあり、津久井城主内藤氏が中央からも注目される存在であったことが知られる。
 ところで、津久井城の近くの田代城にも内藤氏がいたことが知られ、相模北部には後北条氏に仕える二流の内藤氏がいた。田代内藤氏は秀勝─秀行─定行と次第したといわれ、津久井内藤氏最後の当主となった綱秀は田代内藤氏から津久井城主内藤氏に入った人物ともいわれる。

後北条領の西北を守る

 津久井城主内藤氏が束ねていた「津久井衆」は、「敵半所務」あるいは「敵知行半所務」であったという。後北条氏は武田氏と今川氏と三国同盟を結んでいて、敵対関係になかったころ、津久井衆の半分は武田氏の重臣で郡内を支配下におく小山田氏に味方する土豪たちでもあった。いわゆる心から後北条氏に属していたわけではなく、「敵半所務」の所以であった。
 永禄十一年(1568)甲斐の武田信玄は、相甲駿三国同盟を破棄して駿河国へ侵攻し、今川氏真を追放して駿府を占領した。これに対して、北条氏康は氏真を支援して駿河に出兵、信玄は一旦兵を引き上げた。翌十二年、信玄は碓氷峠を越えて関東に出兵してきた。武蔵鉢形城を包囲した信玄は、そのまま南下して武蔵滝山城を落城寸前にまで追い込み、さらに長駆して小田原城に攻め寄せた。
 信玄は小田原城下に放火するなどして北条方を挑発したが、氏康はそれに乗らず籠城策を固持したため、長期戦の不利を嫌った信玄は帰国の途についた。信玄は甲斐への帰路を津久井城近くの三増峠にとった。信玄が三増峠を帰路に選んだのは、津久井周辺には武田氏に味方する土豪がいたことが背景にあったようだ。
 戦いは武田軍が三増峠に差し掛かったとき、退路を断とうと待ち受けていた北条氏照・氏邦兄弟が襲いかかったことで始まった。有名な三増峠の戦いで、信玄はただちに氏照・氏邦兄弟の軍を迎撃した。緒戦において武田軍は苦戦を強いられ、武田二十四将の浅利信種が討たれるなど多くの犠牲を出したが、別働隊の山県昌景の活躍で合戦は武田方の勝利となった。この戦いにおいて、信玄は小幡重貞を津久井城に向かわせて内藤氏の出撃を牽制した。ところが、『甲陽軍鑑』によれば津久井城主内藤周防が武田側の加藤丹後に討ち取られたとあるが、内藤氏は津久井城に釘付けにされ戦いには参加できなかったようだ。  以後も内藤氏は津久井城にあって、後北条領の西北を守る任にあたった。やがて、時代は大きく動き、豊臣秀吉が覇者として躍り出てきた。
 天正十八年(1590)、豊臣秀吉は小田原北条氏攻めの陣を起した。津久井城も後北条氏の防御戦の一端をになったが、城主内藤氏は小田原城に詰め、津久井城は津久井衆が守っていた。豊臣秀吉は小田原城を包囲すると、後北条方の支城を各個撃破していった。松井田城、厩橋城、鉢形城が次々と落城し、八王子城そして、津久井城も豊臣軍に包囲された。

内藤氏の終焉

 六月、八王子城が落城した。津久井城は徳川勢の本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉らに包囲、攻撃を受けていた。八王子城落城の報に接した津久井城籠城勢は、六月二十五日、ついに開城に至った。その後、城趾は荒れるがままとなり歴史のかげに消えていった。一方、城主の内藤氏は小田原北条氏の没落に殉じ、その後の消息は不明である。
 ところで、戦国期における津久井城主内藤氏は左近将監景定、大和守景豊の二代とする説がある。三増峠の戦いで討ち取られた内藤周防は左近将監景定といい、そのあとは、大和守景豊が継いで「小田原の役」において落城、没落したというのである。
 この説は『神奈川の城』『日本城郭体系』などに記された「津久井城」の項に見えているが、残された文書などからうなづけないところがある。とはいえ、備後福山藩阿部氏家中の内藤氏、大和高取藩植村氏家中の内藤氏は津久井内藤氏の子孫と伝えており、それぞれ津久井内藤氏一族のものが近世に生き残ったのであろうか。・2006年09月06日

参考資料:・城山町史/日本城郭体系/神奈川の城 ほか】


■参考略系図
 


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