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坪内氏
丸に洲浜
(藤原利仁流富樫氏後裔)


 『寛永諸家譜』に、富樫藤左衛門某、美濃国松倉城に住し、改めて坪内を称すとある。『寛政重修諸家譜』には、藤原利仁流の富樫介家直十一代の後裔藤左衛門頼定が、加賀国より尾張国に赴き、坪内又五郎某の婿となり家号を継いで坪内氏を称したとしている。系譜でみるかぎり、加賀の富樫氏が尾張の坪内氏になったことになっている。
 戦国期、尾張と美濃の境を流れる木曾川の川岸や川辺には、徒党をなして住む七つの家があった。前野・蜂須賀・稲田氏らで川並衆と呼ばれていた。かれらは、平生は船頭や水路に荷を運ぶ水運業を営んだが、戦がはじまれば武器、鉄砲を持って形勢のよい方に味方をして戦場稼ぎをした。俗に野武士と呼ばれる者たちでもあった。

乱世を生きる

 戦国期、木曾川をはさんで、尾張に勢力を張る織田氏と土岐家から美濃を奪い取った斎藤氏との紛争が、木曾川畔で頻繁におこった。小競合がはじまると川並衆に対して、両者から誘いの手が伸びた。そのとき、庸兵として有利な側について働くのが、川並衆の習わしであった。
 弘治元年(1555)、木下藤吉郎が川並衆の蜂須賀小六の城を訪れ、その手下となったことが『武功夜話』にみえている。このころになると川並衆は、織田氏に属して戦に出ることが多くなっていたようである。
 永禄元年(1558)織田信長が、岩倉城を攻め織田伊勢守と浮野で合戦。この戦に参加した前野宗康・長康父子、小坂孫九郎らが信長から所領を与えられている。また、この年藤吉郎が信長供の者となっている。永禄三年、今川義元の上洛軍に対して信長は桶狭間に奇襲をかけてこれに勝利を得た。この戦に川並衆の蜂須賀、前野・梁田氏らが諜報戦に活躍し、信長の勝利に寄与したことが知られている。とはいえ、まだ信長との主従関係は曖昧なものであった。
 川並衆が歴史の表舞台に登場してくるのは、木下藤吉郎が信長の命で、東美濃調略に着手した頃からである 。永禄七年(1564)藤吉郎は川並衆に対して信長に従属することを説き、東美濃調略に協力してくれることを依頼した。こうして、蜂須賀小六は秀吉の手に属し、かれは美濃の郷士に知り合いも多く、藤吉郎の活動を大いに援けた。最初の経略目標は大沢基康の鵜沼城、多治見修理の猿喙城であった。このとき、美濃加納口に勢力を有し松倉城の城主であった坪内氏も小六らの経略によって美濃方から離れて秀吉に従っている。坪内氏は実のところ、川並衆の前野氏とは縁戚の関係にあり、小六・前野氏らが動かないかぎり織田方には属さず、美濃・尾張の国境にあって微妙な立場を続けていたものであった。

近世への道程

 以後、秀吉を介して川並衆は織田氏に属するようになった。同年、小六、前野をはじめ坪内惣兵衛らは藤吉郎に協力して、稲葉山城角櫓を爆破、惣兵衛は新加納に砦を築いている。九月になると、佐々成政らが挑んで結局成功しなかった墨俣に城を築くことに藤吉郎が成功した。この築城には、川並衆として木曾川を熟知した蜂須賀・前野・坪内らが大活躍をした。以降、川並衆は藤吉郎の手について、織田信長の天下統一の合戦に参加して各地を転戦することになる。  『寛政重修譜』によれば、惣兵衛の子が勝定とみえ、その長男某は前野氏を継ぎ、光景と名乗り秀吉に仕えて但馬国出石城主となったことが知られる。実のところ光景は前野宗康の二男で、勝定の婿なったことが実子として誤記されたものである。
 二男が利定で、信長に属して佐々木六角攻め、小谷城攻め、本願寺攻めなどに参陣して活躍している。さらに、利定は織田軍の鉄砲同心を率い、播磨国高倉城攻め、武田攻めのときには織田信忠に属して信濃高遠城攻めに配下を指揮して活躍、みずからも鉄砲をもって敵を討ち止めている。信長死後は豊臣秀吉に属したが、やがて秀吉と不和になり、長久手の戦に際しては森長可に属して出陣。この戦で長可が討死して森勢が退散するとき、追いかける家康軍に対して、馬上より鉄砲を討ち掛けて森勢の退却を援けた。
 天正十八年(1590)、徳川家康に召されて、上総国山口村などに二千石を与えられて以後徳川氏に仕えた。慶長五年の上杉征伐には、男子四人も引き連れて従い、下野小山に至った。関ヶ原の戦には、鉄砲隊五十人をあづけられ、井伊直政に属して活躍した。戦後、加増を受けてすべて六千五百三十余石を領した。家督は嫡男の家定が継ぎ、子孫は大身旗本として存続した。 <

■参考略系図


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