原氏は平安の末頃、出羽前司師清が遠江国原谷庄に来住して以来、土豪として鎌倉初期から地頭・領主の地位を戦国期まで相伝した。原師清は藤原南家藤原木工介為憲の流れで、工藤氏の一族である。為憲六世の孫がすなわち師清である。原師清の後裔は橋爪・原田・久野・孕石・小沢などの諸氏が知られる。 師清の孫三郎清益は、源頼朝の幕下に参じ、寿永四年源平合戦に際し、源義経に従って侍大将として従軍し西国に転戦した。戦後、戦功により本拠を寺田より本郷に移し、城を築き高藤館といい、また本郷城とも称し、以後、原氏代々の居城となった。原氏系図に「源頼朝ニ属シ、平家追討ニ功有リ、地頭職を賜ウ」とある。建久四年五月清益はその子忠安・忠義とともに父子三人で富士の巻狩に参加、曽我五郎・十郎が夜討ちの際、清益は五郎のために傷を受けたが仁田四郎を助けて十郎を刺した。 中世の争乱を生きる 南北朝期、忠清・忠政父子は南朝に味方して宗良・興良両親王に参じて忠誠を尽くしたが南朝方は振るわず、また、文書なども散逸したことから、その間の事蹟は井伊・天野・奥山・二俣・入野の諸氏とともに詳らかではないのが残念である。 忠政は父忠清とともに南朝に忠誠を尽くしたが、南北合一後、関東管領の支配下に入り、上杉禅秀の乱に際しては禅秀に味方して足利持氏と戦い討死した。応永二十四年の正月のことであった。その子忠頼は永亨十年弟二人とともに足利将軍良教に召され、足利持氏追討の軍に加わり、功を立て、父の無念を晴らし、当時忠孝両全の勇将と賞せられた。 応仁の乱には、忠頼の子頼景が細川方となり、今川義忠の先陣として上洛し、東軍に属して西軍山名氏の軍を破り、戦孝を立てた。その後、長亨元年将軍義尚が近江の六角高頼を征討する際に召されてその軍に加わった。戦後、戦功により従五位下に叙され領土も加増されその勢力は城飼郡にまで及んだ。原氏中興の主といわれている。 やがて、時代は戦国の様相を濃くし、原氏にも戦国乱世が反映し、一族の軋轢や家臣の離反が相継ぎ、ついに独立を保つとこが難しくなってきた。勢い隣接する雄族、今川・武田・北条・織田、さらには徳川などに左右されるに至った。 原氏の没落 武蔵守頼延は今川氏衰亡後、武田氏に属した。そして元亀四年(1573)武田信玄の上洛軍に加勢して、三方ケ原に徳川家康を破り大功を上げた。しかし、信玄の帰国、病死により状勢は一変、退却し万全の策を講じるとともに、久野・六笠・武藤・依田の諸氏と謀り、徳川氏に対抗の気勢を示した。これに対して、家康は久野宗能・石川家成を遣わし来攻してきた。 原氏方は可久和の出城がまず落とされ、ついに本城も支えることができなくなり、一族従者家臣を引き連れて海路によって安芸国竹原に落ちていった。これは、元亀四年以前に安芸国に原氏の一族が移住しており、頼延はそれを頼って安芸に入ったといわれている。その後、毛利氏に仕え、関ヶ原の合戦後、毛利氏に従って長門国萩に移住したと伝える。 ■参考略系図 |
●Ver.1 系図
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