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上野富岡氏
三つ巴
(秀郷流結城氏一族)


 富岡氏は、結城氏の一族と伝えられている。すなわち、永享の乱で滅亡した関東公方足利持氏の遺児春王丸・安王丸らを擁して結城城に立て籠り、幕府軍を迎え撃った結城氏朝の弟という久朝の子直光を祖としている。

富岡氏の登場

 久朝は結城合戦で戦死したが、直光は落城に際して「乳母に抱かれて領国であった上州の西之山入琴辻に逃れて隠れ、のち、延徳元年(1489)小泉に築城して小泉を本拠としたため小泉氏となった」という。そして、佐貫庄二十一郷のほか吾妻郡七十一村、武蔵深谷などを領して古河公方政氏に仕えたとある。また『富岡家譜』には「結城久朝が、永享元年(1429)、将軍義政により上野国甘楽郡富岡郷を領し、富岡城に住す」と記されている。これらの記述をそのままに受け止めることはできないが、富岡氏は結城久朝の子直光より始まったということでは諸説一致している。
 富岡氏の祖である主税助直光に宛てた足利政氏の感状には延徳五年(1493)の日付があり、二代玄蕃允秀光にあてた足利政氏の感状は永正元年(1504)と年欠の二通があり、富岡主税助あての足利晴氏の感状は天文十六年(1547)のものがある。これらの史料から、富岡氏が古河公方に属して忠勤を励んでいたことが知られる。
 また、富岡氏が小泉を本拠としていたことは、永正十五年(1518)の『道者日記』の「小泉分、富岡豊前殿、同対馬殿、同縫殿助殿、同杢之助殿」とあることから、まず疑いをいれないものである。

上杉謙信の関東進出

 永禄三年(1560)、越後の長尾景虎は関東管領上杉憲政を擁して、三国峠を越えて関東に出兵してきた。この景虎の出陣は、天文二十一年に北条氏康に攻められて越後に逃れた憲政を助けて関東管領家を再興するためであった。景虎は後北条氏と戦い厩橋城に入ると、北関東をたちまち切り従え、翌年には長駆して小田原城を包囲攻撃した。そして景虎は、上杉憲政からの譲りを受けて関東管領職に就任し、上杉氏を名乗った。
 このときの景虎の陣に参加した関東の諸将士の名前と幕紋を記した『関東幕注文』を作成したが、そのなかに富岡氏の名前は見当たらない。このことは、幕注文に記された岩下衆の名前が抜け落ちていると思われていることから、富岡氏の名の後世に伝わらなかったとするものもある。しかし、このころの富岡氏は古河公方に仕えていた関係から、景虎の陣に加わらなかったと考えられる。
 この当時の富岡氏の当主は主税助秀信で、秀信が上杉謙信に属するようになったのは、謙信が秀信に送った書状などから永禄五年のころであろうとされている。謙信の書状には「横瀬雅楽助が館林後詰として相動くについて、協力して従軍すること」とか「甲南両軍(武田・北条)が利根川を渡って金山へ向って兵を動かすについて、出陣するように」というように、富岡氏は謙信からの細かな指示を受けて出陣していたことが知られる。
 このころ、武田信玄は西上野侵攻を繰り返し、永禄六年には岩櫃城を落城させ、永禄九年には箕輪城を攻め落とした。その間の永禄八年、富岡氏は謙信から書状を送られ「西上州の備を一だんと緊張すべき」という指示を与えられている。このころの、富岡氏の軍事力を知るものに『上杉輝虎軍勢書上』があり、そのなかに「富岡主税助 三十騎」とあり、「結城 二百騎」「佐野 二百騎」「横瀬(由良) 三百騎」「長尾但馬守 百騎」などと比較して、富岡氏の軍事力動員の規模がわかる。富岡氏の軍事力は大きなものではないが、謙信の書状などから富岡氏への信頼はあつく、その行動力もすぐれていたことがうかがえる。

後北条氏に属す

 永禄九年に箕輪城が落城したことで、武田信玄の勢力が西上野に浸透し、さらに、今川義元が戦死すると駿河に兵を進めたことで、甲駿相同盟が破れ、上杉謙信と北条氏康の間に「越相同盟」が結ばれた。それまで、謙信に属して戦っていた富岡氏は、佐貫庄上郷五郷を由良氏の手より取り戻したいと後北条氏に属するようになった。秀親が後北条氏に属したのは、佐野氏との対立、強力な軍事力をもって戦国大名に成長した由良氏に対抗するため、強力な後楯を必要としたためであった。
 永禄十二年、富岡秀親は成田氏と古戸で戦い戦死してしまった。秀親には後継ぎがいなかったため、家臣たちが相談して小山氏から養子を迎えた。これが重朝で、系譜によれば武勇に優れた人物であったと記してある。また、系図によっては秀長、秀高などとも記され名前が一致していない。翌十三年、北条氏政は秀長の家督相続を祝し、祝儀として「太刀一腰一文字」を送っている。後北条氏にとって、富岡氏は東上州進出に重要な武将であり、相応に気を遣っていたことがうかがわれる。
 富岡秀高(重朝)が家督にあった永禄十二年(1569)から天正十三年(1585)までの間は、上野国にとって波乱にとんだ時代であった。西方から上野に進出してきた武田信玄が天正元年に死去し、関東に出陣を繰り返していた上杉謙信も天正六年に病没した。謙信の死後、上杉氏では家督争いが起こり、厩橋城主の北条高広は越後から離れて武田氏に属した。ところが、武田氏も織田・徳川連合軍の侵攻で天正十年に滅亡した。この激動のなかで、富岡一族は北条氏政に属して活躍し、氏政から富岡六郎四郎(秀長)に、氏直から富岡対馬入道(秀高)にそれぞれ書状が送られている。
 天正十二年(1584)北条氏直は北条高広を降した祝儀に小田原に出張してきた金山城主由良国繁と館林城主長尾顕長兄弟を幽閉し、金山城と館林城の中間に位置する富岡氏に対して、金山新田領内から十一ケ所と館林領内から十ケ所の所領宛行状を出して富岡氏の労をねぎらっている。

その後の富岡氏

 その後、由良・長尾両氏と後北条氏が戦ったとき、富岡氏は後北条方として出陣している。やがて、秀長は家督を秀長(秀朝)に譲って隠退したようだ。天正十三年、由良・長尾両氏が後北条氏に屈服し、上野における後北条氏の支配体制が確立した。
 天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐が開始されると富岡氏は後北条氏に味方して小田原に籠城した。留守の小泉城は、秀吉の部将浅野長政・前田孫四郎らの兵に囲まれ降服開城した。七月、後北条氏も小田原城を開城し秀吉の前に降服した。ここに、富岡氏も没落の運命となり、富岡氏の子孫は、大坂の陣などに参加して幕臣となった者、あるいは、福井藩・高崎藩などに仕えた者などが知られ、それぞれ家名を後世に伝えた。 

参考資料:大泉町史/富岡市史 ほか】


■参考略系図
 


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