平安末期に藤原氏の子孫で紀伊国豪族湯浅権守俊明が仁宇の地を領し、仁宇氏祖になったという。仁宇氏は仁宇谷城に拠って那賀川上流域山間部を押さえ、天正年間には仁宇伊豆守が長曽我部氏と敵対していた。長宗我部元親は海部郡の諸城を陥れ、仁宇城主仁宇伊豆守正広と婚姻を結び、阿南の西方城主東条関之兵衛実光に元親の養女を嫁がせるなど、阿波の南方は土佐色に染まりつつあった。 やがて天正五年、長曽我部元親は海部郡と吉野川の峡谷ぞいの二方面から阿波に侵攻した。このとき、桑野の東条氏、仁宇の仁宇氏らは元親に降った。元親は十河氏を破って四国の統一に成功したが、羽柴秀吉の四国遠征で大敗を喫し、降伏して土佐一国の一大名とされ、伊予・讃岐・阿波はすべて没収されてしまった。 天正十三年(1585)、阿波一国は蜂須賀家政に与えられ、蜂須賀氏が阿波国主として入部すると、家政は土豪層の所領をすべて没収し、改めて与えるという形をとった。この措置に強い反発をもった仁宇山城主の湯浅(仁宇)十郎左衛門尉は一度は、家政に従ったものの、挙兵して仁宇谷一揆を引き起こした。仁宇谷一揆に対して、家政自らが出陣して圧力をかけ仁宇山城は攻め落とされた。 【主な参考文献・鷲敷町史 など】 ■参考略系図 |