藤堂氏は近江国犬上郡藤堂村を発祥とする。その出自については諸説があり、 (1)中原姓とするもの (2)宇多源氏佐々木氏族とする説 (3)平姓とする説 (4)藤原姓とする説 …などがある。 一般には『寛政重修諸家譜』がとりあげている藤原姓説で、「今の呈譜に先祖三河守景盛足利将軍家に仕え、近江国犬上郡数村を領し、はじめて藤堂を称す。これより連綿して越後守忠高にいたる」と記す。藤堂高虎の父虎高は、三井乗綱の男で、初め愛智氏を称した。のちに忠高の養子となる。すなわち忠高八女ありて男なし。長女は虎高の妻となった。 さて、虎高は『寛政重修諸家譜』によると、はじめ甲斐の武田信虎に仕え、軍功をあげてその偏諱を賜り、のち、近江の浅井備前守勝政に仕えたという。もっとも、近江の豪族がなぜ武田信虎に仕えたのか、また、そのころの戦国大名浅井氏に勝政という人物はみえないので、そのままに信じることは危険であることはいうまでもない。 高虎は、はじめ父と同じく浅井氏に仕え、元亀元年(1570)の姉川の戦いなどにも出陣している。浅井氏滅亡後織田信澄、羽柴秀長、さらに秀吉に仕え、伊予板島城主八万余石となる。のちに板島は宇和島と改められた。”文禄の役”に続いて慶長二年に起きた再度の朝鮮の役に出陣、加藤嘉明とともに水軍を率いて戦い、巨済島に朝鮮水軍を破った。しかし、のちには李舜臣によって苦戦を強いられている。 関ヶ原の合戦には、大谷吉継の軍を破る功をあげた。合戦後は十二万石の地を与えられ、伊予半国二十万石を領した。のちに伊勢国津に転封となった。大坂夏の陣には、駿府城にて家康と軍事を議し、また河内路の先鉾を務めた。翌年の冬の陣では二条城にて軍議し、近江国彦根城主井伊直孝とともに御先手を務めた。高虎は小身からその身を起こして、主を変えながら最後には三十万石の大大名に出世した。まさに世渡りの達人といって、さしつかのないところだろう。 高虎の家督は嫡子高次が継ぎ、以後代々伊勢津を領して幕末に至っている。 ・ 写真:藤堂高虎画像 (東京大学史料編纂所データベースから) ■参考略系図 ・諸説あるなかで、藤原氏流三井氏説を中心とした系図を作成、掲載しました。 |