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山高氏
花 菱
(清和源氏武田氏支族)


 戦国大名武田氏の軍編成のなかに、「衆」あるいは「党」と呼ばれる地域ごとにまとまった集団の武士たちがあった。そのような衆のひとつである武川衆は、武河衆とも六河衆とも文書にみえる。その初見は、軍鑑によれば天文十一年(1542)桑原城普請のおり、板垣信形に武川衆を添え御預けなさるとあり、また後に典厩信繁につけられたともある。
 「甲斐国志」は武川衆について、石和五郎信光の末男、六郎信長という者が忠頼の家蹟を継いで一条氏を称し、その子に八郎信経があって、さらにその子一条時信が甲斐守護職に任じられ、この時信に男子十数人があって、武川筋の各村々に分封され、それぞれ在名を名乗って子孫繁栄、のちに武川衆と号したと見えている。
 これを地図のうえから見れば、西から教来石・島原・白須・山高・牧原・青木などの土豪となり、さらに青木氏からは折井・柳沢・山寺氏などが分出している。

折井氏の活動

 武川衆の一である山高氏は、一条時信の長男義行の子信方が、巨摩郡山高村に住したことに始まる。一条氏は武田宗家の第二代信光の第四子一条信長より始まり、鎌倉時代、甲斐守護職にも任ぜられている。
 信方より八代基春まではとくに記事はない。基春の子信之は越後守を称し武田信虎に仕えた。その子親之は信虎・信玄に仕え、武川十二騎の随一であった。永禄四年九月の川中島合戦で武田信繁が戦死したとき、その首を奪い返して信玄に献じた。その後を継いだ信親も信玄に仕え、永禄十二年の小田原攻め、三増合戦に功があった。そして、元亀三年十二月、三方ケ原の合戦で戦死した。
 信直は、信玄・勝頼、信繁の長男信豊に属していたが、天正十年勝頼没落ののち武川衆一同とともに徳川家康に帰属した。そののち若神子対陣のとき、北条氏直から誘われたが応じなかったことは他の武川衆と同様であった。そして、このとき家康から本領を安堵されたという。その後、天正十二年小牧・長久手の戦、同十三年信州上田城攻め、同十八年小田原の陣と出陣している。家康の関東入国後は鉢形に移住し、天正十九年の九戸一揆に供奉、文禄元年の朝鮮の陣には他の武川衆と同様に船材伐採の指揮をとった。
 信直の嫡子親重は別に一家を立てたことから、その子で信直の孫にあたる信俊が家督を継いだ。慶長十三年、 十三歳のとき秀忠に拝謁し、相続したときは十九歳であった。それから大坂両度の陣に従軍し、子孫は徳川旗本として 続いた。

■ 武川衆の情報



■参考略系図  
  


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