戦国大名武田氏の軍編成のなかに、「衆」あるいは「党」と呼ばれる地域ごとにまとまった集団の武士たちがあった。そのような衆のひとつである武川衆は、武河衆とも六河衆とも文書にみえる。その初見は、軍鑑によれば天文十一年(1542)桑原城普請のおり、板垣信形に武川衆を添え御預けなさるとあり、また後に典厩信繁につけられたともある。 「甲斐国志」は武川衆について、石和五郎信光の末男、六郎信長という者が忠頼の家蹟を継いで一条氏を称し、その子に八郎信経があって、さらにその子一条時信が甲斐守護職に任じられ、この時信に男子十数人があって、武川筋の各村々に分封され、それぞれ在名を名乗って子孫繁栄、のちに武川衆と号したと見えている。 これを地図のうえから見れば、西から教来石・島原・白須・山高・牧原・青木などの土豪となり、さらに青木氏からは折井・柳沢・山寺氏などが分出している。 折井氏の活動 折井氏は青木時光の子時次が巨摩郡武川筋の折居に住し、折居を称したのに始まる。信衛より政武までの所伝は無い。次俊は武田信縄・信虎父子に仕えた。次久は永正六年父に継いで折居を知行し、武田信虎・信玄に仕え弘治二年(1556)に没している。のちの八代次昌のとき、折居から折井に改めた。 次昌は武川に住し、父の死後家督を継ぎ武田信玄・勝頼に仕え足軽を預かり、軍忠により信玄から兜を賜っている。天正十年(1582)勝頼の没落ののち、織田信長は武田遺臣を扶助することを禁じたが、徳川家康は成瀬正一をもって命を伝え、次昌は米倉忠継とともに初めて家康に謁し、遠州桐山に潜居し庇護された。信州に侵攻した北条氏直が南下するに及び、忠継とともに甲州に入り武川衆を誘い、若神子に陣する氏直の招きに応ぜず、却って北条氏の兵を追い散らし家康より米倉・折井の連名で感状をもらった。これよりのち、家康が樫山着陣のとき、米倉・折井の両人は武川衆を指揮すべき旨を命じられた。 家康の甲州経略が一段落したのち、次昌をはじめ武川衆の面々は尾張小牧役や信州上田城攻めに参加して、家康が東海大名としての地盤を固めることに貢献した。天正十二年の小牧役に際して、次昌は背後における上田城の真田昌幸の押さえとして信州勝馬の砦を守備したが、やがて尾張の戦場に移り、四月、長久手の合戦に功をあげた。ついで、武川の諸士とともに一宮城を守り、九月米倉忠継とともに楽田より押し寄せる羽柴勢を防戦した。 天正十三年、上田城攻めのときは、大久保忠世の手に属し、味方敗軍のとき、武川の諸士とともに踏みとどまって、よく奮戦した。以後も、次昌は米倉忠継とともに武川衆の旗頭として重要な地位をつとめた。その後、小田原の陣に供奉したが、陣中で病を得て没した。享年、五十八歳。 徳川家旗本として近世へ 次昌の子次忠は父とともに小田原陣にいたが、父の死後、その遺領を相続した。天正十九年、米倉氏が御使番になったことから、以後、次忠が武川諸士を支配することになった。ついで、奥州九戸政実の乱に際して、大久保忠世の手に属して岩手沢本陣まで供奉した。慶長五年(1600)の関ヶ原役には、大久保忠隣に属し、秀忠の東山道西上軍に加わって信州上田城を攻めた。関ヶ原合戦には間に合わなかったが、幕府成立ののち新恩二百石を賜り、併せて千石を知行する旗本になった。 次忠には男子が無かったため、娘の子にあたる政次を養子に迎えて家督を譲った。そして、大坂冬の陣のときには病の床にあり、養子政次が養父に代わって武川の諸士を率いて出陣した。子孫は永く徳川幕臣として続いた。 ■ 武川衆の情報 ■参考略系図 |