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成瀬氏
丸に酢漿草/下り藤
(二条関白後裔)


 先祖は二条関白とされるが、伝来の系図を焼失したとかでその世系は不詳。いつのころか三河国加茂郡足助庄成瀬郷に居住し、成瀬を家号とした。成瀬氏は松平初代の親氏、または二代泰親のときに松平氏に属したというから、三河譜代では古い家柄である。安城に入部した松平四代親忠に付属して、木戸村、六名郷に住した。正頼のとき家康の祖父清康に仕え、大久保忠俊・林藤助などともに、主家広忠の岡崎還城に功労があり、三十五貫文の地を与えられた。
 嫡子正義は使番、御旗奉行をつとめ、六名郷において二百五十貫文を与えられた。永禄五年(1562)、同僚と争論のうえ討ち果たして遠江国に出奔した。三河一向一揆の知らせを聞き、三河国に帰り、ただちに本宗寺に行き妻子ともども岡崎城に馳せ参じ帰参を許される。のち諸合戦で軍功を顕わし、岡崎で五十貫文の地を与えられた。

●大名に出世

 成瀬氏ではじめて大名になったのは正成である。正成の父正一はさきの正義の弟になるが、三河譜代としては代わった経歴をもっている。永禄三年、ある事情で武田信玄に仕えたが、ひそかに甲府を退出して北条氏に属して軍功があった。ところが、他家に「遊士」することが禁止されるにあたって三河に帰ったという。  関東入国後、二千百石の地を与えられ、徳川氏の直轄領七万石の代官をつとめた。
 長男正成は、幼少より徳川家康に仕え、天正十二年(1584)の長久手の合戦には、小姓組に属して出陣している。年齢わづか十七歳でしかなかったが、勇敢にも敵陣へ突入して兜首をひとつあげた。家康が首実権してる最中、味方の先遣隊が、敵の猛攻撃をうけてたじろいでいるのを見て、制止されるのを払い除けて、真一文字に敵中にとって返し、ふたたび兜首をあげたという。役後、根来鉄砲衆五十人を預けられる。十七歳で一軍の将となったのは正成だけだという。
 天正十八年の小田原攻めで武功を重ね、関東入国後、下総栗原四千石の領地を賜った。このころ全国統一の覇業を押し進める秀吉が、大坂城で徳川家臣団の馬揃えを検分した。このとき、正成の堂々たる武者ぶりが秀吉の目にとまった。秀吉は家康に、正成を五万石の俸禄で召し抱えたいと申し入れた。この話を家康から聞かされた正成は涙を流して恨み事を述べ「ぜひにもといわれるならば、切腹仕る」と開きなおり、結局このことは沙汰止みとなった。が、正成に対する家康の信頼は以前にも増して、いよいよ深くなったという。
 関ヶ原の戦いでは旗本の先手となって活躍している。戦後、老中に抜擢され、本多正純らと国政に従事し、甲斐国のうちに二万石を加えられた。
 慶長十二年、正成は家康九男で尾張の徳川義直の傅役となった。大坂の陣では、尾張徳川家の付家老として活躍。戦後、尾張犬山城三万石を賜った。
 ところで、『姓氏家系大辞典』には、清和源氏新田氏族説が紹介されている。すなわち、大舘氏義=氏親−成瀬忠房−忠頼−忠勝−国重−国次−正一−正成という系図も掲げられている。そして、国重は二条良基五世の孫国平の子という説をも述べているのである。この説に従えば、成瀬氏は源姓ということになる。


■参考略系図
    



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