ヘッダイメージ



伊奈氏
左頭二巴/剣梅鉢
(桓武平氏秩父氏流)


 清和源氏足利氏から分かれた戸賀崎氏からさらに分流して荒川氏となり、そして信州伊奈郡に住して、伊奈を家号にしたと伝える。しかし、『寛政重修諸家譜』には、藤原支流に収められている。伊奈熊蔵忠基のときに、三河国に流れてきて松平氏に仕えた。
 忠基の子・忠家は永禄六年の三河一向一揆には一揆方に与し、のち出奔、長篠の合戦後に帰参するも天正三年の信康自刃で再び出奔するという憂き目にあい、その子熊蔵忠次もそのつど父に従っていた。
 忠次が帰参を許されたのは、天正十年家康の堺見物の後で、すでに三十歳を過ぎていた。初めは小栗大六(正氏)の与力、次いで父忠家の旧領小島を与えられ、家康の近習として領国政治に参与し、活躍するようになった。
 天正十八年、小田原征伐のとき、秀吉は大軍を率いて三河吉田に到着した。折りからの激しい雨により、富士川の渡河は困難を極めるも、秀吉は急ぎの進軍を命じた。ところが家康の命によって、駿・遠・三の道路・舟梁の管理をしていた忠次は、ただちにこれを三日間留めるよう秀吉に進言した。「四十万もの大軍が雨の中を渡河すれば、必ずや多少の犠牲者は出ようし、ひいては誇張されて敵の士気をあげることとなりましょう。すでに殿下の武威は関東を併呑しており、もはや一日の遅速など勝敗に関わりございますまい」というものであった。これには秀吉も大いに感じ入り、言に従い三日間軍を休めたという。
 家康の関東入府に対しては、父祖伝来の地を離れることを嫌がる多くの家臣たちの中で、忠次はただひとり賛成していたという。すなわち、大阪に対する東の都としての江戸の発展を早くから予見していたのである。利根川・荒川といった大河川と低湿地の多い関東平野は、優れた水利土木工事によって多くの新田が得られる。忠次は関東郡代としてただちにとりかかり、数々の用水路を開鑿すると同時に、利根川の流路を北へ移したり、築堤を推進した。これらの水利事業は、「備前掘」という名前で広くその名を知られるようになるのである。
 自身の知行としては武蔵小室・鴻巣に一万三千石を有し、慶長十五年に没する。孫の忠勝にいたって、嗣子なく所領を収められる。


■参考略系図
    



バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧