先祖は阿部仲麻呂の後裔阿部朝任とされ、鳥羽院より藤原氏の姓を与えられ、両氏の文字を合わせて安藤を称したという。しかし、『系図総覧』所収の「安藤氏系図」には、その祖を源頼信とし、清和源氏となっている。 家重のとき家康の父広忠に属し、天文九年(1540)の安城合戦で戦死した。嫡子基能は家康に仕えて御旗奉行となり、三方ケ原の戦いで討死した。のち大名になった直次は、幼少より家康の近侍し,姉川合戦に従軍した。天正二年(1574)、遠江国の乾城攻めのさい土民の一揆によって兵糧が途絶したとき、直次は携帯の食糧のすべてを家康に進上したと伝える。 長久手の戦いでは家康の側近にあり、七度の功名をあげその武功は抜群といわれた。なかでも特に名高いのは、敵将の池田恒興を倒しておきながら、その首級を他人に譲った戦場の友情譚だ。恒興を突き伏せた直次は、若武者永井直勝をさし招き、その功を直勝に譲ったのである。二人は兄弟の契りを結んでいたのだ。 直勝は恒興の首をもって本陣にかけもどると、家康はその働き振りを褒めたたえた。すると、直勝は「この首は、直次が討ち取ったもの」と、ありのままに報告した。そうとは知らぬ直次は恒興の子、池田元助の首級をかかえて家康の前に進み出ると、「先程、恒興らしき敵将を若武者が槍で突き伏せ、討ち取るのをみましたが、見事でござった」と直勝をとりなしたのであった。 家康は二人の友情に感じ入り、直次に対する信頼の念をいよいよ深くしたという。 関東入国後の慶長十年(1605)、武蔵・近江のうちで三万八千石を賜り、老中に抜擢され、家康近臣の本多正純・成瀬正成らと天下の国政に参与した。慶長十五年、直次は家康の十男頼宣の傅役となり、大坂の陣には頼宣の付家老として出陣した。 これより前、家康は旧来の功臣に一万石ずつ与えたことがあったが、直次だけは尾張横須賀五千石であった。十年後のある日、家康は成瀬正成らに「一万石の政治向きはいかに」とたずねた。すると正成は、直次だけが五千石であることを言上した。家康は大いに驚き、自分は直次も一万石だと思っていた。それなのに、直次は不平ひとつ言わず、よく今まで辛抱してくれた、と即刻、五千石を加増し、十年分の差額五万石の米を与えた。 元和五年(1619)、頼宣が紀州五十五万石を賜って転封すると、直次は付家老として従い、田辺三万八千八百石を領した。 ■参考略系図 |