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千種氏
●笹竜胆
●村上源氏  
・千種氏系図の記述より。  


 千種氏は、村上源氏久我家の流れを汲む中級公家六条家の分かれで、権中納言有忠の二男として生まれた千種忠顕で知られている。
 忠顕は、元弘の変(1331)に敗れた後醍醐天皇に従い隠岐に移ったのは二十歳前後のことといわれている。元弘三年、忠顕は天皇とともに隠岐を脱出し、伯耆の名和長年を頼り、船上山に兵を挙げた。忠顕は頭中将の栄職に任じられ、山陰の軍勢を率いて京都六波羅攻めに、足利尊氏・赤松則村とともに参戦し、勝利した。建武新政権下では参議に進み、佐渡など三国の国司となり、数多くの没収地を与えられた。伊勢の千種の地を得たのもこのときであろう。
 建武二年(1335)北条時行が新政権に反乱を起こし、足利直義らを破り鎌倉を陥れた「中先代の乱」が起こり、東下した足利尊氏は時行軍を破り、乱は治まった。乱後、尊氏は鎌倉にとどまり後醍醐天皇に叛意を示し、尊氏を討伐するため東下してきた新田義貞と箱根竹の下で戦って、新田軍を破り、その勢いをかって上洛した。
 尊氏の軍は、北畠・新田・楠木ら官軍と京都で戦ったが敗れて、海路を九州に落ちていった。九州で再起した尊氏は軍を率いて西上、湊川で楠木正成を敗死させた。尊氏軍が京都に入ると、天皇は比叡山に逃れた。延元元年(1336)忠顕は足利直義の軍勢が比叡山の行在所に迫ったのを防ぎ、ついに坂本んも雲母坂で戦死した。
 忠顕の子顕経は、父の志を継いで南朝に仕え、正平七年(1352)北畠親房の指揮する南朝軍とともに、足利義詮と戦った。同二十四年(1369)足利義満は、土岐頼康に命じて北伊勢を攻めさせた。伊勢国司北畠顕康は、三重郡に砦を築きこれに備えた。このとき、顕経は禅林寺城を築き、公家方諸将の総大将として三重郡を統轄したという。さらに、永徳元年(1381)に、千種に移り山城を構えた。


・千種城祉 左:本丸跡・右::土塁跡

 その後の千種氏の動向は必ずしも詳らかではないが、千種氏と北畠氏とは、ともに村上源氏より出て、久我氏を称した同系であり、千種氏は北畠氏から客将の扱いを受けていたようだ。千種氏の完全な系図は伝わっていないが、以後も、千種を拠点に一勢力を築いていたようである。
 寛永十六年に著されたという『千種城の由来』によれば、千種氏の支配する領地は「北勢四十八家の頭りょう千種常陸之助(忠治)押領の邑郷、東は生桑、北は老原、西は近江山境、北は石榑あみさかの嶺、南は水沢蛙の嶺境」とあり、三重郡内二十四郷を領していたことが知られる。これは、いまも鳥居道山に入山の権利をもつ旧村々が、二十四郷といわれているのに符合する。

戦国時代の千種氏

 千種常陸助忠治は、北伊勢の総大将として、一千騎を従えていた。北伊勢には宇野部、後藤、赤堀、楠、稲葉、南部、萱生、冨田、浜田、阿下喜、白瀬、高松、茂福、木俣ら四十八家の諸武士がおり、千種氏に属していた。弘治元年(1555)三月、近江国の佐々木六角義賢が、伊勢国に侵攻を企て、その家臣小倉三河守に命じ三千余騎を率いさせ、まず千種城を攻めた。忠治はこれをよく防ぎ、勝敗はつかず結局和睦した。
 忠治には男子がなく、佐々木氏の重臣後藤但馬守の弟を養子とした。そして千種三郎左衛門と称した。これによって、千種氏は佐々木氏に属するようになり、北伊勢の諸武士もこれにならった。その後、忠治に実子が生まれ、千種又三郎と名付けた。忠治は、親の情としても実子に家を継がせようと図った。これを感じた三郎左衛門は忠治父子が出かけた隙に城を閉じて父子を追放した。
 忠治父子は、川北村に退き家来を集めて千種城を攻めたが、寡勢では城を落とすことはかなわず、近江国へ行き、佐々木氏の食客となった。その後、織田信長の勢力が拡大し、信長の部将、滝川一益が長島城に居城した。北伊勢の諸武士の多くは滝川氏に属するようになり、千種又三郎も滝川氏に従った。しかし、一益は家臣梅津某に命じて叉三郎を殺害させた。これは、近江の佐々木氏に同心しているとの理由であった。
 父忠治は卜斎を称して禅門に入り隠居していたことで、その難を逃れ、伊賀に移ってひそかに起居する身となった。その後、織田信雄が滝川一益を逐い長島へ入城したとき、卜斎は召されて千種城を与えられ、千種村を安堵された。そして、津城主冨田信濃守の甥を養子にし顕理と名乗らせ、信雄に奉公させた。ところが、信雄が秀吉と戦って和睦し、のちに秀吉から追放処分となって流浪するにともない、豊臣秀吉に陪従して、音羽村で六百石を領地とした。元和元年(1615)五月六日、大阪夏の陣において顕理が戦死し、千種家嫡流は断絶した。
 ところで、千種三郎左衛門忠基は、天正十二年(1584)五月、小牧・長久手の戦より帰る途中の豊臣秀吉が織田信雄に属する美濃加賀井城を攻めたとき、浜田与右衛門、小泉甚六、楠十郎らを加勢として信雄より城に送られたと『太閣記』にある。そして、三郎左衛門はここで戦死したと『勢陽軍紀』に記されている。

千種氏のその後

 千種氏の余話として、その子孫が江戸中期に美濃松笠郡代となっている。それは千種清右衛門直豊、六郎右衛門惟忠、千種鉄太郎の三人である。このうち、六郎右衛門惟忠は、安永五年(1776)七月、家臣加藤三郎兵衛を使者にして下鵜川原村の禅林寺に参詣させ、先祖の供養を行っている。そして、同月、禅林寺住職は松笠陣屋に代官を訊ね、千種家菩提寺のい委細を報告したことが「辻家文書千種家の記録」に残されている。・2005年07月25日

【参考資料:菰野市史ほか】

●城の写真は、 城郭探訪録:三重編 から転載させていただきました。深謝!



■参考略系図
 

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