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立野氏
揚羽蝶
(桓武平氏頼盛流・物部氏後裔?)
・平氏の代表紋を仮に掲載。立野氏の家紋は調査中、ご存知の方、ご教示ください。


 立野氏が拠った大和国平群郡立野(生駒郡三郷町)が初めて記録にあらわれるのは、 平安時代後期の延久二年(1070)の『興福寺雑役免東西諸郡』に「大和国平野郡立野郷竜田」と記されたものである。 立野郷は相当広い地域であったようで、のちに荘園化して立野庄となったようだ。 南北朝時代になると立野庄は興福寺一乗院領の立野下庄、 大乗院領の立野上庄があらわれる。この立野の地に起こって、大和武士の一人として生きたのが立野氏であった。
 立野氏の出自に関しては『大和志料』に、「竜野氏は宇麻志麻治より十四世孫物部建彦は竜野、横広、高瀬、荒マキの 祖也、大和侍之地神より在多々村を受領して在名をもって名字を称す」とあり、物部氏の子孫となっている。一方、 立野氏の一族という安村氏に伝来した『立野安村吉井三家及御由緒書』によれば、平清盛の弟頼盛の後裔となっている。 すなわち、頼盛の子保範の子保忠が祖とあり、その弟保知は吉井氏の祖となっている。中世の信頼できる系図書である 『尊卑分脈』には、頼盛の子として数人の男子が記されているが保範の名は見えない。また、安村系図の世系は代数が多く、戦国時代末期以前のことは真偽定かならずといったものである。
 信頼できる立野氏の系図としては、『大乗院寺社雑事記』に記されたものがある。室町時代の豪商として知られる 楠葉西忍や筒井氏との関係が記され歴史史料として貴重なものだが、まことに簡単な内容で代々の実名や事績を知る ことはできない。
 おそらく立野氏は「大和志料」にあるように古代豪族の末裔であったものが、立野庄の荘官となり、次第に勢力を拡大 していった。そして、いつのころか家系を平氏に付会しものであろう。さきの『雑事記』には立野衆はことごとく平氏であると記されており、室町時代において立野氏は平姓を名乗り、周囲もそれを認知していたことが知られる。

大和武士

 中世の大和は守護職が置かれず、興福寺別当が守護・国司としての任にあたっていた。興福寺は大和最大の荘園主で あり、荘園内の有力名主たちを衆徒、国民として組織化し、大和一国の支配を行った。衆徒は興福寺僧徒に準じ存在でいわゆる僧兵であった。一方、国民は大和独特の表現で、春日社領荘園内の神主らで俗体をしていた。この衆徒・国民がのちに武士団に成長して大和武士と呼ばれるようになる。
 興福寺別当職は、興福寺の両門跡である大乗院門跡と一乗院門跡のうちより立つのが習わしであった。権力の集まるところ抗争を生じやすく、平安時代末期より、両門跡は対立関係となり、衆徒・国民らも両派に分かれて対立、武力抗争に発展することもあった。鎌倉幕府が滅び、南北朝の動乱期を迎えると大乗院門跡は武家方、一乗院門跡は宮方に味方して抗争は激化した。大乗院方は衆徒筒井氏を盟主とし、一乗院方は国民越智氏を盟主として互いに抗争を繰り返した。大乗院門跡と一乗院門跡の抗争は、両門跡の権威を揺るがすことになり、大和武士らの自立化をうながす要因となった。

大乗院 興福寺おん祭
写真:大乗院跡の碑(左)、若宮おん祭の流鏑馬

 大和武士たちは地域ごとに党を結合、南北朝の合一がなったのちは、大和最大の祭といわれる春日若宮おん祭における宮座組織ともなった。筒井氏を刀禰(盟主)とする乾(戌亥)党、越智氏を刀禰とする散在党、十市氏を刀禰とする長谷川党、箸尾氏を刀禰とする中川党、楢原氏を刀禰とする南党、さらに万歳・高田氏らが中心の平田党の六党で、それぞれ刀禰を願主人として春日社若宮祭礼に流鏑馬を勤仕した。至徳元年(1384)の『中川流鏑馬日記』の願主人交名には、箸尾殿 万歳殿 高田殿 布施殿 楢原殿 越智殿 筒井殿 十市殿 柳生殿らがみえ、立野氏もその一人としてみえている。また、『大和国中廻文次第』によれば、戌亥脇に筒井・竜田・小泉・立野・片岡らの名がみえ、立野氏は筒井党にあったことがうかがわれる。
 室町時代、立野氏は応永二十一年(1414)、康生三年(1457)に国民としてあらわれる。しかし、筒井氏、越智氏をはじめ、古市・十市・箸尾氏らの大和武士に比べるといささか影の薄い存在であった。とはいえ、大和の動乱に無関係というわけにはいかず、立野氏は筒井氏麾下の一人として行動していた。

大和争乱を生きる

 永享元年(1429)、ともに衆徒である豊田中坊と井戸氏との間に合戦が起こった。筒井氏は井戸を助け、越智氏は豊田を助けて一大争乱へと発展した。大和永享の乱と呼ばれるもので、衆徒国民の抗争が繰り返され、それに河内守護畠山氏の大和乱入、幕府の大和出兵などがあって、大和一国は戦乱に揺れた。動乱は永享十一年、一方の盟主である越智氏が幕府軍に討伐されたことで一応の終結をみせた。
 永享十年の夏、将軍義教の不興をかった大乗院門跡経覚が立野に隠居した。立野氏は大乗院方の国民であり、 かつて立野氏の女を嫁とした豪商楠葉西忍が経覚の知遇を得ていたことなどがあって 立野氏は経覚を迎え入れたものであろう。これを機縁として、経覚と立野氏は親交を深めていった。 竜田大社 のちに奈良に戻った経覚が龍田社に参ったとき、立野信貞が一族を引き連れて出迎えている。さらに、東大寺二月堂に参ったときは立野信久が長谷川党とともに供奉している。さらに、信貞は子息春若丸の元服に際して経覚に諱字を選んで欲しいと請うており、立野氏と経覚が公私にわたって交際をつづけていたことが知られる。ここに出た信貞、信久らは嫡流に近い人物と思われるが系譜上の位置づけなどは不明である。
 ときの将軍足利義教は将軍親裁の恐怖政治を行ったため、嘉吉元年(1441)、播磨守護赤松満祐によって暗殺されてしまった。義教の死によって越智氏では家栄が復活、一方の筒井氏では順弘と成身院光宣が没落、さらに順弘と光宣の間に内訌が起こり、順弘は立野氏のもとへ奔った。筒井氏は順永が家督となり、順弘は立野衆、豊田・越智氏らの支援を得て順永・光宣と対立したが敗れて殺害された。
 その後、順永・光宣の筒井氏と大乗院経覚が対立、幕府管領に細川勝元が就任すると筒井氏の勢いがにわかに 揚がった。その間、立野氏は経覚方であったようで、文安六年(1449)、立野信衡が吉井信俊とともに経覚を訪問、 経覚方の重鎮古市胤仙と情報交換をしている。そして、翌宝徳二年(1450)秋、立野氏は胤仙に加わって出陣したこと が知られる。
 享徳三年(1453)、古市胤仙が死去したことで、和議が成立して大和は平穏を迎えた。ところが、幕府管領を務める 畠山氏に家督をめぐる内訌が起こった。畠山持国の実子義就と養子の弥三郎(のち政長)の対立で、筒井氏は箸尾・片岡氏らとともに弥三郎を支援、一方の義就には越智・古市・豊田氏らが味方して、ふたたび大和は二つに分かれて抗争が繰り返されるようになった。畠山氏の内訌は泥沼化し、これに将軍継嗣問題などがからまって、応仁元年(1467)、応仁の大乱が勃発した。
………
写真:立野氏も浅からぬ関係を有した竜田大社

打ち続く戦乱

 応仁の乱は文明九年(1477)、うやむやのうちに終結したが、両畠山氏の内訌は河内・大和を舞台に続き、大和では筒井氏と越智氏とが激しく戦った。立野氏は十市氏、片岡氏らとともに筒井党にあったが、どちらかといえば日和見的な立場をとっていたようだ。また、立野氏は立野両方と書かれるように、惣領家と庶子戌亥家が分立していた。さらに、情勢の変化によって越智氏に奔るということもあった。立野氏ら大和の国人領主たちは、中央政治に翻弄されながら自らの生き残りに懸命だったのである。
 立野氏の根拠地である立野は大和から大阪平野に流れ込む大和川の喉口にあたり、古来、大和と摂津・河内を結ぶ交通の要衝であった。また、瀬戸内海から運ばれた塩や堺から奈良に入る魚なども大和川の水運によって運ばれていた。立野氏の一族で明との貿易を行った楠葉西忍も立野の立地に目をつけて拠点を置いたのであろう。立野氏は水運の要ともいえる立野を押えて領主としての封建支配体制を築こうとしたようだが、大乗院の掣肘を受けて前途は多難であった。また、戌亥家のほかに立野松岡、立野東方などの庶子家が存在、立野一族は信貴山東麓の尾根に居館を築いて乱世を生きたのである。
 乱世のなかで大和国衆の浮沈が繰り返されたが、幕府もまた磐石ではなかった。近江出陣中の将軍義量が病没すると、新将軍となった義材は畠山政長を応援して畠山氏の内訌に介入、明応二年(1493)、義就のあとを継いだ基家を討つため政長とともに河内に出陣した。ところが、その留守をついて細川勝元がクーデタを起こし、万事窮した政長は自害、義材は捕らえられて京に幽閉された。この政変によって越智家栄の勢力が拡大、大和国衆を引き連れて上洛を果たした。そのなかには立野氏の姿もあった。
 明応六年、巻き返しを図る政長の子尚順の代官遊佐氏が大和に乱入、立野も少なからぬ被害を被った。さらに、 翌年にも遊佐氏は立野に侵攻、焼き討ちを行った。一連の尚順の軍事行動によって越智氏の勢力は後退、筒井氏が勢力を 盛り返してきた。しかし、打ち続く戦乱に国は荒れ、さしもの大和武士たちの間に和平の動きが出てきた。そして、 永正二年(1505)、越智氏と筒井氏との間で和議が成立、立野氏ら大小の国人も会盟に参加してつかの間の 平和が訪れた。しかし、細川政元は大和国衆が河内の合戦に協力しないのを理由に、赤沢朝経を大和に入部させてきた。 さらに、政元が暗殺されるという事件が起こり、以後、畿内は細川氏の家督をめぐる争いが震源となって大揺れに揺れ続けた。

乱世の終焉

 争乱のなかで、筒井氏の勢力が着実に拡大、越智氏、十市氏らは没落していった。そして、永禄のころ(1560年ごろ) には 筒井氏の覇権が確立したかに見えたが、松永久秀の大和侵攻で筒井氏は逼塞、大和は松永久秀の支配するところと なった。永禄十一年、織田信長が上洛してくると松永久秀は信長に通じて勢力を保持した。ところが、久秀は信長に 謀反を起こしたため、筒井順慶が勢いを盛り返し、天正四年(1576)、順慶は信長から大和守護に任じられた。翌年、 久秀は信長軍の攻撃を受けて自殺した。ここに、大和の中世は終焉を迎えたのであった。
 ところで、永正はじめの会盟ののち、立野氏の姿は遥として現われなくなる。『大和志料』には、 「けだし松永とともに滅びしならん」とあり、大和の中世における荒波に呑まれて滅び去ったようだ。かつて、 立野氏が拠った城址も宅地開発の波に呑まれて、その址をたどるのことすら困難な状況となっている。
 『立野安村吉井三家及御由緒書』によれば、天正年中、立野弥太郎良信が、郡山城主豊臣秀長に仕えたとある。 良信は山辺郡山田城主の山田順貞の次男で、安村之安の婿養子になった人物とある。良信の孫信安は、 関が原の合戦後すぐの大津において徳川家康に拝謁がかない、大和川の「漁梁船(剣先船)」に関する御朱印の 制札を頂戴したという。そして、新しい領主として入ってきた片桐氏からの承認もえて、 立野安村氏は近世に生き残ったのである。・2010年01月28日

【主な参考資料:奈良県史・三郷町史・大和志料 など】


■参考略系図
・三郷町史に紹介された系図と「大乗院寺社雑事記」の立野系図などを併せて作成。

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