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美作立石氏
抱き杏葉
(漆間氏後裔)


 美作立石氏の本姓は、宇佐八幡宮の権大宮司を世襲した漆島という。漆島元邦が、封戸郡立石に住んで立石を称し、延喜年間に美作国に来住したと伝える。
 元邦の長男盛国が二宮立石家を継承し、次男盛栄は漆間姓を名乗って久米郡稲岡荘に住した。この盛栄の子孫に浄土宗を興した法然上人が出ている。立石元邦の次男盛栄から5代目の子孫を漆間時国と云い、時国の子が勢至丸、後の法然である。時国は国司の役人だったが、勢至丸が9歳の時に、管轄地域の荘園の所有者である明石定明によって殺された。時国が臨終の際に、決して復讐をしてはならないという言葉を残したことが、仏道に入るきっかけになったという。13歳の時に比叡山に登り、25年間の修学の後、浄土宗を開いている。
 二宮の本家は、平安、鎌倉、室町時代を通じ、美作国二宮高野神社の社司を継承する一方、美和山城を本拠にして、武力集団を率いて領土を守る荘司、地頭として続いた。高野神社は一宮、総社と並ぶ美作三大社で、二宮村という地名もこの神社に由来している。一宮は中山神社といい、今昔物語にも、中山は猿、二宮は蛇と、祭神が記されている。高野神社は美作地方の鎮守であると同時に、立石一族の氏神でもあった。
 明応七年(1498)、勝田郡三星山城の後藤勝国が攻めてきたが、景泰はこれを撃退している。この戦いで勝国は戦死した。文亀二年(1502)、後藤勝国の子勝政は亡父の恨みを晴らすために、浦上行重を誘って美和山城に攻めてきた。景泰の病歿後に跡を継いだ久朝はこの軍勢を防ぎきれず、ついに城は落ちた。久朝をはじめ一族の多くが戦死し、立石家は滅亡したかにみえた。しかし、久朝の遺児久勝が乳母に抱かれて難を逃れ、久勝の長男久胤、次男久泰によって家名再興がはたされている。
 久胤ははじめ毛利家に属して軍功があり、輝元から恩賞を貰っている。関ヶ原の合戦後、毛利氏が減封処分を受け、美作から撤退したあとの慶長八年に森忠政が津山城主として入封してきた。しかし、久胤は森氏に仕えることなく、帰農して大庄屋となり、子孫は明治まで続いている。弟の久泰は孫一郎と称し、武将としての名声が高かった。後に親族の大橋敬之助がこの名を語り、倉敷浅尾騒動を引き起こしたことが知られている。


■参考略系図
    


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