淡輪氏は、源義経の家臣であった佐藤忠信の末といわれているが、橘氏の後裔とみられる。鎌倉中期から、和泉国淡輪荘公文職を代々相伝した一族であった。淡輪氏を称したのは鎌倉末期のようである。元亨四年(1324)、洪水で大破した京都鴨川の堤防修築のために六波羅探題は、修築経費を畿内近国の御家人から徴発。このとき、淡輪氏の右衛門五郎正円も役銭二貫文の上納を命じられている。これが「淡輪」姓が史料に見える初見である。 鎌倉末期、荘園を預かる荘官たちの中から武士化し現地支配者に成り上がっていく者たちがいた。その特徴は本拠を置く在地の地名を名字に名乗り、幕府または荘園領主に対し、武力・警察権(検断権)を認めさせることであった。和泉国の場合、淡輪氏のほかに、南北朝時代に「深日」姓を名乗って武士化した深日荘刀禰の深日氏などもその一例である。 地方豪族の武士化する動向に拍車をかけ、地域支配実現の可能性を拡大する機会となったのが鎌倉末期から南北朝にかけての動乱であった。淡輪氏の具体的な武士活動が認められるのは、元弘の乱の渦中からである。 淡輪氏の登場 元弘三年(1333)足利尊氏は鎌倉幕府に反旗を翻し、六波羅探題を攻めた。これに際し、正円は急ぎ上洛して尊氏軍に参陣し、六波羅攻撃に参加した。この功により、幕府滅亡後の建武政権下で淡輪荘東方下司職を安堵された。この下司補任が淡輪氏の領主としての礎を築くことになったのである。以後淡輪氏は泉南の有力武士として、また領主階級としての地歩を固め、南北朝内乱の渦中にあって、度々合戦に参加、勇名を轟かせる。 建武三年(1336)、建武政権が瓦解、内乱が本格化する。正円の後を継いだ重氏は両方から誘いを受けた。尊氏からも誘われている。結局、淡輪一族は武家方に味方し、泉南各地を転戦。一方、南朝方からも参陣を求めてきたが、それを受けず淡輪氏は武家方の有力武将として活躍した。 重氏とその子助重が書いた軍忠状には、建武三年十月岸和田氏の籠る八木城攻め、信達荘仏性寺の戦に出陣。翌年十月、横山城の攻防戦に参加、続く壷井合戦、河内天野合戦と、和泉守護細川顕氏に従って転戦したことが知られる。助重は高師泰に属して、1348年春木谷合戦、続いて横山・宮里への討ち入りなど和泉国内の南朝勢力掃討戦に従軍、翌年も、河内の諸合戦に参加して数々の功を挙げている。 南北朝の交戦の渦中、建武五年(1338)武家方の泉南における軍事拠点として井山城が築城された。淡輪氏は同城近くに本拠をもつ有力武将として、井山城の守備を任されていたようである。このように南北朝動乱にあって、淡輪氏は一貫して、武家方に身を置いて戦ってきた。 そのような淡輪氏もその去就を改める事態に直面することになる。「観応の擾乱」である。この乱を引き金に時代はさらに混迷を深め、意を決した淡輪惣領家助重は武家方から南朝方に転じることになった。このとき、叔父の重継は北朝方に残り一族は両朝に分裂することとなった。これは、一族生き残りの方策でもあったようだ。その後は、あるいは武家方にある時は南朝方として、時代の混乱を象徴するようにその去就は目まぐるしいものがあった。このころの軍忠状が、淡輪文書(京都大学文学部所蔵)として現存している。やがて、南北統一がなり、南朝方の勢力は急速に衰微していくことになる。室町時代は、泉南の国人領主として存続した。淡輪河内入道道本は、和泉国内の他国人たちと相互に協力して、幕府の施策に抗議している。さらに、康正三年(1457)、入道道本をはじめ鳥取光忠・箱作道春・籾井道永・日根野永盛等、日根郡内の国人たちは神前で契約、一致した行動をとり、仲間を裏切らないという誓約書を取り交わしている。 乱世を生きる 応仁・文明の乱では、乱の原因の一つともなった畠山氏の家督争いに際し、淡輪有重は細川常有の求めに応じて畠山義就の退治合戦に出陣。その後、乱が本格化してゆくと、常有の本家勝元が東軍の総帥であったことから、東軍の武将としてこの戦乱に参加。1467年の京都一宮合戦に参加して奮戦、有重はもとより、一族・郎等の多くが負傷する激戦を戦っている。 戦国期には守護・細川氏に従い水軍を率いて活躍し感状を受ける。1510年ごろ、細川高国が良重の海上警備に対する軍功を賞して、大和守に任ずる旨を記した書状が残っている。 安土・桃山時代、大和守良重(隆重、徹斎)の娘こよは、関白豊臣秀次の側室となったことが確認できる。のちに秀次が太閤秀吉により追放・切腹させられた折り、こよも三条河原で処刑された。さらに、淡輪家も秀吉から疎まれて、所領没収の憂き目にあった。その後、大和守良重の長男新兵衛重利は、後年紀州浅野氏に仕え、次男六郎重政は、元和元年(1615年)の大阪夏の陣で大阪方として活躍しましたが和泉・樫井方面に出撃し討死している。また、一族の本山氏は徳川家に仕えて、旗本として続いた。 【参考資料:岬町の歴史 ほか】 ■参考略系図 佐藤忠信の後裔とされるが、もとより信じることはできない。泉南にあった藤原氏の荘園淡輪荘の荘官であった橘氏の後裔とした方が自然ではないだろうか。室町期の世系も本によって異同があり、淡輪氏の家系を詳らかにすることは困難である。 |