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谷 氏
揚羽蝶
(宇多源氏佐々木氏流)


 谷氏は宇多源氏佐々木氏流で、佐々木定綱の後裔という福田正之の子衛好に始まるといい、衛好は幼いころに伯父の谷野綱衛に養われて谷野を称した。その後、近江国甲賀郡長野に住したのち父の許に帰ったが、なお谷野を称し、のちに谷に改めたという。ところで、実父福田正之は、美濃国席田郡伊地良村の住人という。いずれにしても、福田正之以前の系譜などは不明である。
 谷衛好は、はじめ斎藤道三に仕え、のち信長に属した。
 天正四年(1576)大坂本願寺の門徒らを攻めて軍功を顕わし、信長より感状を与えられている。「於木津難波表相働首五到来感悦候 弥向後可抽戦功候也」「五月廿三日」「谷野大膳どのへ」とある。大膳は大膳大夫のことで衛好のこと、当時は、未だ谷ではなく谷野を称していたことも知られる。

大名に出世する

 同六年「播磨征伐」では三木城の別所長治を攻める豊臣秀吉に属して賀伏城の砦を守り、敵の糧道を断つも、砦を襲われて討死した。賀伏坂の砦は、衛好が守る平田城の付城で、三木城とは数百メートルの距離にあた。秀吉はその「忠死」を憐れんで賀伏坂の山中に葬り、一株の松を植えて墓表とした。
 衛好の子衛友は、父が賀伏坂で戦死したとき、直ちに敵を討って首を取り、また父の屍も奪い返した。秀吉より、功を賞されて父の本領六千石のほかに新恩の地二ケ所を加えられた。
 天正十一年の近江国「賤ケ岳の戦い」、翌十二年の尾張国「長久手合戦」、翌十三年の泉和国「千石堀・積善寺の戦」においても首級を取る功をあげている。ついで、十五年の九州攻めでは岩石城攻めに加わり、先登を争って勇名をあげた。翌十六年、従五位下出羽守に叙任し、十八年の「小田原征伐」には、山中城攻めにおいて功をたてた。さらに二十年、「文禄の役」に渡鮮、軍功により国光の刀を授けられた。
 慶長五年(1600)、家康の「会津征伐」に際し、本多正純に供奉せんことを乞うたが、領地にあって畿内の警衛を心得んべき旨の仰せを蒙り、領地にあった。
 その後、石田三成が挙兵し、三成は丹波・播磨両国の諸将をして丹後国田辺城を攻めさせた。衛友も三成の催促に応じて、寄手に加わる。寄手の主将は丹波国福知山城主の小野木重勝であったが、他の諸将にはもよより戦う意思はなかった。殊に衛友は「谷の空鉄砲」といわれるように、田辺城主細川藤孝に密かに通じていた。藤孝は衛友の和歌の師だったのである。
 戦後、衛友は藤孝の執りなしで「本領安堵」され、丹波国何鹿郡のうちにおいて一万六千石を領し、山家を居所とした。大坂の陣には両度とも参陣し、その後は「御夜話の衆」に加えられた。

参考資料:戦国大名諸家譜 ほか】


■参考略系図
『古代氏族系譜集成』と『寛政重修諸家譜』から
    


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