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片山氏
三つ巴*
(平氏流)
*「丹波志」に片山彦五郎、紋は 「丸に撫子」、幕紋は「右巴」とある。


 鎌倉時代にあらわれる片山氏は、上野国多胡郡片山、武蔵国新座郡片山郷を名字の地とする二つの流れがあった。 和田義盛の乱(1213)のとき、片山刑部太郎、片山八郎太郎が討死しているが、上野、武蔵いずれの片山氏であったのかは不明だ。
 片山氏が関東から遠く離れた丹波国和知荘と関わりを持つのは、承久四年(1222)、片山右馬允広忠は承久の乱における勲功賞として 和知荘の地頭に補任された。いわゆる、新補地頭として和知荘を知行するようになったのである。広忠以外にも片山二郎兵衛尉季(秀?)康が伊勢国阿下喜御尉に、秀康の子兵衛三郎景広伊勢国田切郷に移住し田切を名乗っている。 かれらは移住したのちも武蔵国出身の関東御家人として、新座郡片山郷に本領を持ち続けていた。 中世武家がみずからの名字の地を、いかに大事にしていたかがうかがわれる。
 広忠は武蔵国の本領にいて、和知荘の支配は目代(代官)に委ねていたようだ。建治二年(1276)、広忠の孫親基は所領を 二人の子供に譲った。万歳丸に和知荘と武蔵国片山郷内別所の地頭職を、孫太郎に和知荘のうち広忠の未亡人が譲り受けていた 地頭職を分与した。その後、相続のことは関東下知状によって承認され、六波羅から施行状が発給されている。このことから、 親基は六波羅管轄下の御家人であり、片山氏が和知荘に移住していたことが知られる。弘安五年(1282)、片山氏は本家仁和寺との 間で和知荘の下地中分に成功するが、その交渉にあたったのは片山孫三郎盛親で、盛親も和知荘に地頭職を有していた。
 鎌倉時代、御家人は惣領のもとで土地は分割相続され、分与を受けた地頭は荘全体の地頭に対して、一分地頭と呼ばれた。 片山氏は親基を惣領にその子万歳丸・孫太郎、そして一族の孫三郎らの地頭が和知荘を分割支配していたのであった。土地の分割相続は、 所領の細分化であり、結果として御家人の生活を窮乏へと追いやっていった。それは一族間で土地をめぐる争いを生み、 やがては御家人の弱体化を招き、ついには鎌倉幕府の土台を揺るがす一因となった。
………
・丹波の山里、長閑な空気がたゆとう和知郷

片山氏の出自考

 名字の地がある武蔵国から遠く隔たった丹波国和知荘に移住した片山氏は、新領地の経営に務めて下地や荘民への権限拡大を図っていった。 そして、本家仁和寺と下地中分によって上荘が仁和寺分、下荘が地頭分となった。かくして、片山氏は和知下荘に拠って、 未墾地の開発を行って勢力をたくわえ、丹波の国人領主へと成長していった。
 丹波の中世武家文書はまことに少ないが、片山氏に伝来した文書群は丹波の中世史の空白を埋めるものとしても貴重である。 伝来文書に含まれた片山氏系図を見ると、その初めは伊予大納言康忠・正検校忠孝とあり、和知荘の新補地頭に任じられた広忠は忠孝の 孫正光の四男である。平正光は『上遠野文書』に「久安六年(1150)八月、陸奥国白河領内、社・金山両村の預所職に任じられた」とあり、 『吾妻鑑』文治三年(1187)六月の条には「畠山二郎重忠地頭職を領する伊勢国治田御厨において重忠の目代が乱妨したことの訴えに対し、 正光は御使として剣・御書を帯し出張した」とある。同一人物としては長命に思われるが、正光が実在した人物であったことは疑いない。 別本系図によれば、片山氏の祖は五十代光孝天皇の七代の末孫平光孝で、光孝は河内国坂戸郷を所領とした北面の武士であったという。 光孝平氏系図は『尊卑分脈』にあるがまことに簡単もので、そこには平光孝の名はない。また、光孝の名乗りも光孝天皇の謚と同じというのも不自然なものに思われる。
 関東の片山氏の場合、武蔵七党のうち児玉党から分かれた氏がある。児玉経行の二男行重は平姓秩父重綱の養子となり、 二男行村は片山二郎、三男行時は片山与二郎を称している。和田合戦で討死した片山刑部太郎、片山八郎太郎らはこの一族らしい。
 和知荘の地頭となった右馬允広忠の長兄光忠は平次、次兄家康は平四郎、そして広忠は平九郎を名乗っていることから 秩父系平氏の流れであると思われるが確証はない。いずれにしろ、康忠・忠孝(あるいは光孝)に至るまでの系譜的流れは不明である。 和知氏系図は記載された人名などから南北朝時代に作成されたものと推定されているが、親基が所領を譲ったという万歳丸・孫太郎の名は みえず、親基のつぎは孫三郎盛親となっているなど不審なところも少なくない。

片山氏の活躍

 さて、所領の分割相続によって御家人の生活が苦しさを増しているとき、元寇が起こり、御家人の生活はさらに窮乏の度合いを深めた。加えて、幕府の弱体化が加速、ついに後醍醐天皇による倒幕計画「正中の変」「元弘の変」によって幕府はさらに動揺した。幕府は捕らえた後醍醐天皇を隠岐に流したが、すでに御家人たちは幕府を見限っており、元弘三年(1333)、鎌倉幕府は崩壊した。
 倒幕の立役者となったのは足利高氏(のち尊氏)であった。幕府の大将として上洛した高氏は、丹波の篠八幡において反旗を翻すと諸国の武士たちに参加を呼びかけた。高氏の檄に応じて多くの丹波武士が篠八幡へと馳せ参じた。『太平記』には久下氏を一番に長沢・志宇知・山内・芦田・酒井・波々伯部氏ら、そして和知片山一族の惣領忠親も一族を引具して篠村へと参じたのである。
 後醍醐天皇による建武の新政がなったが失政が続き、建武二年(1335)、中先代の乱を平定したのち鎌倉にあった足利尊氏が新政に反旗を翻した。かくして、新政は崩壊、時代は南北朝の動乱へと推移していった。片山氏は尊氏方に属、丹波守護仁木頼章に従って越前金ヶ崎、高師泰の吉野攻めなどに従軍して奮戦したことが軍忠状などから知られる。丹波和久城の戦いでは、惣領高親は太刀を振って戦い、その奮戦ぶりを仁木頼章に認められている。
 やがて、惣領高親は康永元年(1342)の天龍寺上棟式に際して尊氏の近侍を勤めるなど京で活躍することが多くなった。代わって、和知にあって軍役を務めたのは庶流親宗・貞盛らであった。親宗は仁木氏が守護職を更迭されたのち丹波守護職となった山名時氏に従って高山寺城攻めに活躍、貞親は時氏に従って紀州に出陣、各地を転戦している。その間、惣領高親の動向は知れないが片山氏の惣領の立場は維持していたようだが、乱世のなかで惣領の権威も失墜、一族への統制力も失われていった。高親の消息は延文二年(1357)の文書で途絶え、和知片山氏系図も高親の代で終わっている。
 その後、康暦元年(1379)山名氏清が片山帯刀允に充てた所領預状、十五世紀のはじめ応永二十八年(1421)、片山重親が阿上三所神社に宛てた田地寄進状が伝わるばかりで、片山氏の動向は遥として知られなくなる。

和知の土豪として存続

 和知氏惣領の動向は、高親の流れを汲むと思われる重親の文書が伝わるばかりで、和知惣領家は没落したようにもみえる。とはいえ、片山氏の庶流は和知の土豪として続いていた。寛正三年(1462)にあらわれる片山弥三郎は、名乗りが家次で片山氏庶流の人物であった。片山氏系図には和知片山氏の祖広忠子として、嫡男広親と庶子右馬三郎が記されている。
 弥三郎家次は右馬三郎の後裔として系図に見えるが、のちに書き込まれたもので家次にいたる世代数も少ないように思われる。 和知氏嫡流の名乗りを見ると「親」を通字にしており、右馬三郎系は家次の祖父某が平四郎を称し、弥三郎家次の「家」を含め 「家」「康」を名乗りの通字にしている。改めて片山氏系図を見ると、広忠の兄平四郎家康の流れが「康」を通字としている。当時の慣例から すれば、弥三郎家次系は家康の後裔とすればシックリいくのだが、もちろん確証があるわけではない。いずれにしろ、家次の流れも片山氏の一つであり、 戦国時代末期に活躍する兵内康元へとつながっている。また、出野城に拠った出野氏も片山氏の支流といい、 片山・出野氏に粟野氏を加えた三家が和知三人衆と呼ばれて和知を支配した。
 丹波守護職は、仁木氏、山名氏を経て幕府管領を務める細川本家が戦国末期まで世襲した。在京の細川氏に代わって丹波の経営にあたったのは守護代で、おおむね八木城主の内藤氏が務めた。応仁元年(1467)、応仁の乱が起こると丹波は細川氏の重要な兵站を担うとこととなり、『応仁記』には守護代内藤氏をはじめ丹波国人の奮戦が記されているが、そのなかに片山氏の名はない。延徳元年()、守護代上原氏の横暴に対し、須知氏、荻野氏らが国人一揆を起こしたが、そこにも片山氏の名はみえない。片山氏が和知下荘を本領としていたことは史料などからうかがわれるが、その支配力は相当脆弱化していたようだ。
 その後、永正二年(1505)に幕府奉行人が片山七郎左衛門、片山助次郎に宛てた文書から本領安堵を受けたことが知られる。片山氏はようやく失地回復を遂げたのだが、やがて、細川氏の内訌に翻弄されることになる。ちなみに、七郎左衛門・助次郎らの系図上の位置づけは分からないが、当時における片山氏の中心人物であったことは間違いない。

 
片山氏、ゆかりの和知を訪ねる


片山氏の菩提寺-曹洞宗東寓寺  古文書を伝来する片山家  片山家土蔵の巴紋  片山家裏山の墓所  坂原の阿上三所神社  

   
戦国時代を生きる

 永正四年、細川政元が家臣に謀殺されるという事件が起こった。魔法に凝って女子を近づけなかった政元には跡継ぎがなく、九条家から澄之、支流阿波細川氏から澄元、さらに一族から迎えた高国と三人の養子があった。家中は澄之派と澄元派に分かれて対立、ついに澄之派によって殺害されたのである。以後、細川氏の家督をめぐる抗争が続き、丹波国人らも否応なく争乱に巻き込まれた。
 澄之一党は澄元・高国によって滅亡、澄元が細川家の家督となったが、今度は澄元と高国が対立関係となった。 片山助次郎は澄元に味方して活躍したが、守護代の内藤氏は高国方にあり、永正十七年、澄元が阿波で病没したことで進退窮まった。一方、助次郎は内藤氏とともに高国方であり、助次郎は内藤に降って高国方として行動するようになった。その後、紆余曲折があって高国は天王寺の戦いに敗れて自害、澄元の子晴元が幕府管領となった。しかし、世の中は治まることなく、細川氏家臣の三好氏が台頭、丹波では多岐郡の八上城に拠った波多野氏が大きく台頭していた。
 そして、永禄十一年(1568)、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛、丹波国人らは義昭・信長に通じた。ところが、義昭と信長が対立するようになると、丹波衆は義昭に味方して信長と対立するようになった。そして天正二年(1575)、明智光秀を大将する織田軍の丹波攻めが開始されたのである。丹波衆は八上城の波多野氏、氷上郡黒井城主の赤井直正を盟主として明智勢を迎え撃った。
 当時、和知は片山兵内・出野甚九郎・粟野久次の和知三人衆が支配していた。経緯は不明だが、三人衆は明智光秀に味方して行動している。そして、丹波平定がなったのち、片山兵内・出野甚九郎・粟野久次らに亀山築城の人夫差出の命令を受けている。人数をみると片山氏110人、出野氏171人、粟野氏26人で、人数はそのまま三氏の勢力をあらわしたものといえそうだ。実際、天正九年の「当知行目録」によれば、片山兵内170石、出野甚九郎467石、粟野久次95石で、文字通り山間の土豪というべき知行高ではある。かくして、片山氏らは光秀に服し、織田政権の支配化に組み込まれたのであった。

乱世の終焉

 丹波一国の領主となった明智光秀であったが、天正十年(1582)、主君織田信長を京本能寺に討った。そして、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れた光秀は滅亡した。その後、柴田勝家らライバルを蹴落とした秀吉は豊臣と改姓、天下人への階段を駆け上って行った。秀吉は検地、刀狩を推進、豊臣政権を確立していった。そして、片山氏ら土豪・地侍らは豊臣政権のなかで中世在地領主としての立場を失っていくのである。
 慶長三年(1598)、天下人秀吉が病没すると、実力者徳川家康と豊臣政権の能吏石田三成とが対立、慶長五年、関が原の合戦が起こった。このとき、三人衆の一人出野甚九郎は家康の東軍に味方して出野城に拠った。その兵力は百人ばかりであったといい、西軍の小野木氏に攻められてあえなく落城、討死した。このとき、片山兵内がどのように行動したのかは不明だが、おそらく旗幟曖昧にして時節を傍観したようである。戦後、徳川方に所領の安堵を願い出たようだが、思い通りの結果が得られるはずもなく帰農したようだ。
 その後、大坂の陣が起こると豊臣方から片山兵内にも出陣の誘いがあったようだが、兵内は豊臣家の腰の弱さを見抜いて、体よく誘いを断っている。これが片山氏の武士としての最期の姿で、大坂落城の翌年、兵内康元はこの世を去った。
 いま、和知を訪ねると片山姓の多さに驚かされる。片山氏の古い墓地を訪ねると、室町時代のものという宝篋印塔や一石五輪塔などが祀られている。墓地の奥中央に「知元院殿王翁宗祢大禅門」と彫られた石碑があり、背面には「建長七年八月十日卒 片山株中」とある。建長七年といえば1255年、初代広忠を顕彰したものであろうか、和知には鎌倉時代以来の歴史がいまも息づいていることを実感した。

参考資料:和知町史/武蔵武士 ほか】

丹波国衆伝 バナー

■参考略系図
・『和知町史』所収系図から作成。
 

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