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田公氏
木 瓜*
(日下部氏流)
*但馬日下部氏一族の代表紋。


 田公氏は但馬国の中世豪族で、『和名抄』の二方郡田公郷、『但馬太田文』の二方郡田公御厨を本拠とし、田公を称するようになった。その出自はというと、孝徳天皇の皇子表米親王の末裔が田公郷に土着して田公氏を名乗ったものといい、日下部姓を称していた。すなわち、太田垣・八木・朝倉の諸氏と同じく日下部一族ということになる。
 山名氏が山陰諸国を制圧した南北朝期にその被官となり、戦国時代、山名誠通のころには因幡守護代となった田公遠江守高時(時高とも)、同次郎左衛門尉清高がみえ、代々、因幡国八上郡日下部城を居城にしたといい、いまも因幡に田公姓がある。
 田公氏の系図については異同が多いが、孝徳天皇の皇子表米親王の子孫で、朝倉高清から出ていることは、諸系図一致している。とはいえ、田公氏の系図ならびに居住地については疑問が非常に多いといわざるをえない。田公氏の小代における城跡も明確ではないし、墓所もそれらしいものがみあたらない。ただ、居城である城山城は天正五年(1578)に落城したため、田公氏の歴史が分からなくなったのであろう。また、七釜城主であった田公氏嫡流も元亀年中頃(1570〜72)まで活躍していたが、その後の動向は不明である。

田公氏の歴史

 田公氏の祖といわれる朝倉高清は承久三年(1221)に没したといい、高清から数えて八代目が綱典とされているが、居城が落城した天正五年(1577)までの間は、三百五十余年となり、系図に記される世代は二から三人の名前が脱落したものと思われる。  戦国時代のきっかけとなった「応仁の乱(1467)」以前の但馬で、山名氏に従う諸将としては垣屋・太田垣・八木・田結庄・塩冶・篠部・上山・下津屋・西村・赤木・三方・三宅・藤井・橋本・家木・朝倉・宿南、そして田公氏などが数えられている。応仁の乱における西軍の総帥山名持豊の命令に従って、京都に集結した山名軍のなかに田公美作守・同能登守らの名が見えている。
 文明十五年(1483)からの山名政豊の播磨侵攻に田公肥後守豊職が従軍し、垣屋越前守らと播磨蔭木城を守っていたが、同十七年三月、赤松政則に急襲され垣屋一族多数が討死して城は落城した。田公肥後守はかろうじて城を脱出して、政豊の拠る坂本城に急を報じたが、戦いはすでに終わっていて救援することができなかった。
 長享二年(1488)八月、六年間にわたる播磨遠征に疲れた政豊は、兵をおさめて但馬に撤退しようとした。田公肥後守父子と政豊の馬廻衆がこれに同調したが、垣屋氏以下の諸将は戦闘継続を主張し、政豊は孤立して田公父子と馬廻衆に守られて播磨を脱出した。政豊の敗戦を問責し、嫡子俊豊擁立を望む諸将の動きに対して、田公父子は政豊を奉じて木崎城(のちの豊岡城)に拠って、最後まで山名政豊を支持した。
 やがて、守護権力は弱体化し、守護職も有名無実化していった。それでも、政豊は幕府内である程度の力を保持していたようだが、明応八年(1499)に没し、次男致豊、三男誠豊が家督を継承した。そして、田公氏は勢力を失っていった。
 戦国時代、入道して秋庭と称した田公綱典は、天正五年(1577)羽柴秀吉の第一回但馬侵攻にあたって、本城である城山城、および支城である村岡の城を捨てて、因幡国気多郡宮吉城の同族田公新介高家を頼って逃走した。その後、山名豊国に従って羽柴軍と戦い、豊国が羽柴軍に降って鳥取城攻囲軍に加わると、それに従軍し、のちに豊国が七美郡を領するようになると、村岡に来って豊国に仕えた。以後執事となり、長男の澄典も山名氏に仕えて用人を勤めた。

沢庵宗彭と田公氏

 江戸前期の禅僧として知られる沢庵宗彭は、田公氏の生まれといわれている。『七美郡誌』によると、「田公綱典入道秋庭入道の子采女澄正の二男を宗彭という」とあり、母は牧田又之丞日下部光政の娘とある。また、一方では、綱典の次男半兵衛尉真典の三男が沢庵宗彭というとも記している。
 ところが、出石方面では山名の家老秋庭能登守綱典という者がいた。これは三浦大介義昭の弟義行が相模国高座郡秋庭に住み、地名をとって秋庭を号したという。あわただしい戦国末期の世相のなかで秋庭能登守は出石郡の小坂村大谷に引隠して帰農している。
 いずれにしろ、沢庵宗彭は但馬に生まれたことは間違いないようだが、田公氏の生まれか、平姓秋庭氏の生まれかは異論が多い。しかし、沢庵宗彭は平姓秋庭氏の生まれとするのが通説のようである。
 沢庵宗彭は、臨済宗勝福寺希先について受戒、徳禅寺、南宗寺をへて慶長十四年(1609)、大徳寺住持となった。紫衣事件で幕府に抗議し、出羽国に流される。のちに許されて、家光に重用され、江戸品川に東福寺を開いた。あるとき、家光が東福寺を訪れた際、出された漬物を大層気にいり、これは蓄え漬ではなく沢庵漬だといったという。これ以来、大根漬けの香の物を沢庵漬けと称するようになったという。
【資料:美方町史/兵庫県大辞典など】


■参考略系図
・美方町氏所収系図を底本に、各書にみえる人名()を併せて作成。()人名はその世代に相当するものであって、親子・兄弟関係については不詳である。

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