飯尾氏は鎌倉幕府の初代問註所執事を務めた、三善康信の後裔である。 三善氏は、いわゆる帰化系氏族で、錦宿禰から三善朝臣への改姓が認められたものの後裔という。茂明は長保二年(1000)こと、主税頭兼算博士としてみえ、その子孫も相次いで算博士となり、養子の為康や行康も算学を継いだ。康信は鎌倉に下って鎌倉幕府の問注所の初代執事となっている。 官僚系武士 康信は康延六年に三善家に生まれる。父の名は不明。早くから朝廷内で能吏として認められたが、母方の叔母が源頼朝の乳母であったためか、平家全盛の時代には不遇な立場にあった。一方、頼朝と親交を深め、伊豆に配流されていた頼朝に月に三回の割合で京都の動静を知らせ続けた。治承四年には源氏追討の危機を逸早く知らせ頼朝の挙兵の契機をつくった。 元暦元年(1184)、頼朝の請いにより鎌倉に下向し、大江広元らと頼朝の政務の補佐を行った。建久二年、政所・侍所・問注所の幕府三機関が正式に整備されると、問注所の初代執事に任じられた。弟康清も公事奉行に列した。 頼朝の死後も頼家・実朝の下でも問注所の執事として重きをなすが、北条氏の執権体制が教化されるなかで、中枢での活躍の場面は少なくなった。康信が最後に重要な役割を演じたのは承久三年(1221)の承久の欄である。病気をおして出仕したかれは即時出撃を主張し、幕府体制を固めることに貢献した。 町野氏は近江国蒲生郡町野を苗字の地にしたとの伝説がある。嘉禄元年(1225)に評定衆が設置されて以来、寛元四年まで康俊・康持は、同族の矢野氏・太田氏とともにその一員として活躍し、また問注所執事を兼ねた。一方、六波羅評定衆として政康・康世の名がみえる。 建武政権下の雑訴決断所職員中に信宗の名がみえている。室町幕府の成立後は、評定衆として奉行人より一段高い身分に列した。『見聞諸家紋』に左近将監敏康の名で紋が記されている。 今川氏に仕える 戦国時代、駿河引馬城主であった飯尾氏は、室町中期に長連が、遠江に入部する今川義忠に従って京都から駿河に移ったことに始まる。 賢連は今川氏親に仕えて、はじめて引馬城主となった。以後飯尾氏の居城となる。飯尾氏が支配した浜松庄は、引馬城の支配地として引馬領とも呼ばれた。その子乗連は、義忠に仕えてその上洛軍に従い、桶狭間の合戦で討死した。あとを継いだ連龍は、永禄11年、今川氏真に疑われて殺害され、駿河飯尾氏は滅亡した。 戦国期、氏真に仕えて、永禄九年(1566)j庵原洞を知行した飯尾若桜。天正二年(1574)の武田氏の遠江侵入に際して、武田軍に降伏した飯尾四郎佐衛門尉。などの名が史書にみえるが、さきの飯尾氏との系譜的関係は不詳である。 ■参考略系図 |