防長の椙杜氏は三善清行の末裔で、源頼朝の幕下に参じて、鎌倉幕府の問注所初代執事となった三善康信の後裔になる。石見・豊前の椙杜氏も同族。 信康の子康連は下野国塩野郡太田庄を領して太田氏を称し、鎌倉幕府八奉行の一人になった。その後康有・時連・貞連と続いた。時直は足利尊氏に従って九州下向の際、玖珂郡椙杜郷に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して椙杜八幡宮を創建したといい、暦応四年祖父貞連から筑後生葉庄内朝田村、備中新見庄、加賀小坂荘などの所領とともに玖珂郡内椙杜郷地頭職を譲られた。 萩藩の『閥閲禄』によれば、正康は九州鎮定の綸旨を受けて西下、筑後国行和の地を賜り、筑後に居住、のち周防国椙杜郷に移住、大内氏に仕えて椙杜を名乗ったという、正康の子弘康は、応仁の乱に大内政弘に従って上洛、その賞として摂津国中島の幣島内の地を預けられた。弘康には子がなく、大島郡八代の桑原某の次男を嗣子とした。これが房康である。房康の子隆康は蓮華山城を構えた。ただし、これには異説があって、蓮華山に城を構えたのは、鎌倉の上杉憲実とともに周防に下ってきた太田左近時直であるともいう。 弘治元年十一月、毛利元就の防長計略のとき、帰属を要請され、これを了承して本領を安堵された。元就は、蓮華山城に近接する鞍掛山城を攻め、大内義長方の城主、杉治部大輔隆泰あを討ち、元就から椙杜北方の地五百貫を宛て行われた。また元就・隆元父子より、周防侵入以来、無二の覚悟をもって毛利家を援助したことを謝され、今後も隆康ならびにその弟に対し異心を抱かぬことを誓約した起誓文を授けられた。こののち、豊前山賀城攻めにも出陣し、感状を受けている。 隆康には子がなく、元就の五男元秋を養子に迎えたが、元秋は出雲富田月山城の城督を命じられて去り、弟元康に家督を譲った。その後、元秋の病死により、元康がその後任として出雲に去ったので、隆康は毛利家の重心志道元保の次男元縁を養子とした。 元縁は知謀の将として毛利輝元の厚い信頼を得、輝元から豊浦郡長府の勝山城在番を命じられ、知行四千三百貫を宛て行われた。 ■参考略系図 |