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小田野氏
右丁字巴
(清和源氏佐竹氏流)


 小田野氏は常陸源氏佐竹氏の一族山入氏の庶家である。常陸国那珂郡美和村小田野に城を築いてそこに拠った。『新編常陸国誌』には「佐竹の末葉小田野刑部少輔行義の居りし所と云う。中世佐竹氏の族、此処に住して小田野氏となる。其の館の址、今、山林となって存せり」とかかれ、『日本城郭全集』では「十四世紀中頃、佐竹貞義の七男山入師義の三男自義が、当城(小田野城)を築き、小田野九郎と称し、九代二百五十年間の城である」と記されている。


佐竹氏の擾乱

 小田野自義は、山入氏の庶子家であったが、山入一揆騒動のときは、佐竹宗家側について、忠節をつくした。その功績により、のちに久慈郡小川郷その他の領地を佐竹宗家より得て、永く繁栄した。
 山入師義は、足利尊氏に属して常に身近に侍し、各地で戦功をたてた功績により、尊氏から直接国安郷を与えられた。これにより、山入氏は佐竹一門の中でも他の庶子家と違って、佐竹惣領と肩を並べるような勢を示していた。応永十四年(1407)佐竹十二代義盛が死去すると、義盛には男子がなかたことから、後継問題で佐竹家は二つに分かれて対立抗争した。
 一つは、関東管領上杉家から義人を養子に迎えようとする惣領派、一つは、源氏の血をつなぎ惣領襲を得ようとする山入師義を急先鋒とする山入派であった。この対立は、関東公方や関東管領の勢力争いとも結び、以後、百年間も不毛の争いが繰り返された。これが「山入一揆」の起こりである。当時は、室町幕府の力も弱まり、京都では応仁の乱が起こり、各地では土一揆が発生、世はまさに戦国時代に入ろうとしていた。そして、下剋上の風潮が起こり、それらのことが、常陸国では山入一揆となってあらわれたのである。
 さて、佐竹十六代義舜が父義治の死後、十六歳で家督を継いだとき、山入氏義は義舜を太田城より追放し、以後、十四年間にわたって太田城主にあった。一方野義舜は文亀二年(1502)一月、金砂山の合戦に勝利して以来勢を養い、永正元年(1504)に太田城奪還の総攻撃に出た。山入氏義は、この太田城攻防戦に敗れて難攻不落の山城である本拠地の国安城に退き籠城した。
 しかし、戦勢に勝運はなく、山入一族は佐竹領外へ出ようと久慈川を北に逃れたが、途中の高部で、小田野大和守義村の二男義正に捕えられ、茂木の覚明院境内で山入氏義・義盛父子は殺害された。氏義らの墓は小田野氏のはからいによって、小川の長福寺に残っている。

宗家の家臣に列す

 戦国時代、小田野氏の惣領義正は佐竹義昭の側近の重臣で、天文後半から永禄前半の間に、宇都宮広綱・芳賀高継から義昭への披露を依頼した書状を送られたり、白河晴綱へ書状を送ったりしている。さらに、義昭の使者として陸奥南郷の指南にあたっていた東義堅の所へ赴くなどの務めを果たしている。弘治三年(1557)には、和田昭為とともに、義昭側近の筆頭として、甲神社に百疋を奉加したことが「甲神社文書」から知られる。
 義正のあとは、弟で僧籍にあった義房が還俗して継いだ。義房は佐竹義昭・義重の二代に側近の重臣として仕えた。義房の子義忠は、義重・義宣の二代に仕え、ことに義重の時代には、和田・小貫氏らとともに佐竹家中屈指の側近重臣で、天正初年頃から、芳賀高継・岩城常隆・白土隆貞らから、佐竹氏に披露を依頼する書状を送られている。また、伊達政宗に書状を発給したりしている。天正九年(1581)十二月には、上野新田で戦功をあげ、佐竹義重から刑部少輔という官途を与えられた。
 天正十八年、豊臣秀吉による小田原北条氏攻めが起ると、佐竹義宣は小田原に馳せ参じて所領安堵を受けた。以降、小田野氏の佐竹家重臣としての地位は多少低下したようだが、それでも文禄四年(1595)には、義宣から久慈郡深萩の蔵入地千百七十三石余を預け置かれる有力者であった。豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき、義宣に仕えて肥前名護屋に在陣した。
 慶長七年(1602)、佐竹氏が常陸から秋田大舘への転封とに際し、小田野義忠は子宣忠とともに秋田に移った。こうして、常陸における二百五十年にわたった小田野氏の歴史は幕を閉じた。


■参考略系図
    


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