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尻高氏
三つ頭巴/藤
(桓武平氏長尾氏流ほか)


 尻高氏には、古尻高氏・斎藤尻高氏・長尾尻高氏の三系があり、いずれも世系を詳らかにしない。
 古尻高氏は、後部高(しりとべのたか)氏の転訛ではないかとする説がある。正倉院文書の天平十七年(745)に後部高多比、天平宝孝元年(757)に後部高笠麻呂、同五年に高麗の人後部高笠麻呂などの名が見える。姓氏禄に後部高は高麗国の人、後部高千金の後裔となっている。
 そして、平安時代には坂上田村麿の征夷に、尻高氏は上野十四郷の加勢一千騎とともに従軍し、大嶽根山の戦いに大功を立てたと言い伝えられている。

斎藤尻高氏

 斎藤尻高氏は吾妻太郎行盛の次男次郎が尻高郷を賜り、はじめて尻高氏を称したことに始まるという。次郎の兄憲行は吾妻氏であったが、父行盛が里見氏に敗れて自刃してのち榛名に隠れていたが、母方の叔父斎藤氏の援助を受けて岩櫃城を回復し、母方の姓斎藤氏を名乗るようになった。次郎も憲の一字を賜って尻高源次郎憲重を名乗った。以降、天正年代まで十二代を数えるという。また、斎藤氏系図によれば、岩櫃城主大野下野守義衡の三男基勝をもって尻高左馬之亮(介)と記している。
 しかし、斎藤尻高氏の世系は混沌としてその実態は判然としない。しかし『加沢記』にみえる尻高氏は斎藤系の尻高氏と考えられる。
 大永年間に斎藤憲次が大野宇治を倒して岩櫃城主となると尻高氏は斎藤氏に属した。永禄六年(1563)に斎藤氏が真田氏と戦ったとき、尻高左馬之介は一門の中山斎藤安芸守とともに斎藤則実の配下となって雁ケ沢に出陣している。また、真田昌幸の岩櫃城攻撃にあたっては、岩櫃城の出城岩鼓城にあって斎藤憲宗の配下として、神保・割田らとともに岩櫃城を守った。そして、元亀二年(1571)、武田信玄の侵攻に際して、尻高左馬介は信玄に降服し、中山城を攻撃している。天正八年には真田昌幸に属し、以後、真田氏の麾下として活躍、天正十七年には八幡要害において後北条軍と戦っている。

■参考略系図



長尾尻高氏

 長尾尻高氏は、「長尾景春の乱」をひき起こした白井長尾景春(伊玄入道重国)の子重儀が尻高左馬頭を称したことに始まる。応永八年(1401)、伊玄入道重国は家臣河内政右衛門を城地見立てに遣わし、尻高城の築城に取りかかった。そして、二年を経て城が完成すると重儀を城主に据えた。重儀は尻高にちなんで尻高左馬頭を名乗った。重儀の所領は尻高・大塚・赤坂・平・横尾で石高は三万貫、二千二十四石の地であった。重儀は尻高を本城にして、壁谷の塁、八幡の要害、栃瀬の塁を築いて攻守の完璧を期した。
 系図によれば、重儀を初代として、重忠、重定、重治と続き、重治は永禄二年(1559)に死去したという。この間、百四、五十年は比較的平穏に過ぎ、尻高城主として勢力を拡大していった。しかし、戦国争乱の時代になると近隣の諸豪からの圧迫を受けるようになっていた。すなわち、越後の長尾景虎(上杉謙信)、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康らを後楯とする大小の豪族たちで、尻高は中山とともにこれら群雄の接点にあり、その保身も容易ではなかった。
 戦国時代、吾妻郡では岩櫃城主の斎藤氏が最大の勢力を誇り、斎藤氏は上杉謙信に属して武田方の鎌原氏と戦った。重治ののちの尻高氏の当主は系図が欠けていて判然とはしないが、戦国末期に左馬亮景家が現れてくる。尻高左馬介は斎藤氏の一門として、岩櫃斎藤氏に味方していた。

尻高氏の滅亡

 永禄六年(1563)、武田信玄の部将真田幸隆の攻勢によって岩櫃城は落城し、城主斎藤憲広は越後に逃れ去った。その後、憲広の子憲宗は上杉氏の支援を得て嶽山城に籠って再挙を図ると、尻高氏も嶽山城籠城に加わった。やがて、武田軍と斎藤氏は和睦したが、真田氏の調略によって内応者が出て嶽山城は落城し、斎藤氏はまったく滅亡した。
 かくして、吾妻郡には武田信玄の勢力が伸張し、元亀二年(1571)、信玄みずからが岩櫃城に出張してくると、ついに尻高左馬介も嫡子の源次郎を人質に差し出して武田軍に屈服した。しかし、信玄が甲斐に帰ると左馬介は上杉方に転じ、ふたたび武田方と対峙した。
 このような左馬介の行動に対して、天正二年(1574)、真田幸隆は尻高城に攻め寄せた。かねてよりこのことを予期していた左馬介は、知略にすぐれた武士を集めて作戦を練っていた。そうして、結城玄灌・里見大膳を参謀として真田軍を迎え撃った。戦いは尻高勢の奮戦で、さしもの真田軍も攻めあぐんだが、衆寡敵せず左馬介景家は戦死してしまった。一説には、越後の上杉謙信を頼って落ちていき、のちに上杉景勝に仕えたともいう。
 その後、景家の子と思われる左馬介義隆が後北条氏に属して猿ケ京宮野城に立て籠った。これをみた岩櫃城代の矢沢薩摩守は尻高氏を排除せんとして、天正八年の暮れに攻め寄せた。尻高摂津守を大将として籠城していた尻高一族は、暗夜を利用して城外に打って出たが多勢に無勢ついに城は落ち、摂津守は自殺しようとした。しかし、部下に止められて白岩の方へ落ちていったが、武運の無さをはかなみ結局のところ自刃して果てた。摂津守の死をもって、尻高氏はまったく滅亡してしまった。
 余談ながら、長尾氏尻高氏の家紋は「藤」とされている。ところが、上杉謙信が残した『関東幕注文』に記された「沼田衆」のなかに尻高左馬助がみえ「三かしらひたりともえ」とある。・2007年05月29日

参考資料:高山村誌/吾妻城塁史 ほか】


■参考略系図
    


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