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下総白井氏
月星(九曜)?*
(桓武平氏千葉氏族)
*家紋不詳。
 千葉一族の代表紋を掲載。


 白井氏は「しろい」または「しらい」と読む。桓武平氏千葉氏の一族で、大きくみて二つの流れがある。すなわち、千葉介常兼の二男常親が下総国白井庄に住して白井氏を称したもの。常兼の曾孫胤正の八男胤時が、先の白井氏を継承し、白井庄と香取郡白井郷を領して白井氏を称したものとである。
 白井胤時は、宝治元年(1247)の「宝治合戦」で、上総権介秀胤に連座して白井庄を没収され、千葉宗家に預けられた。この結果、白井氏は相馬氏・大須賀氏らのように独立した勢力を築くことはできず、千葉宗家の直臣としての道を歩むことになった。胤時の嫡男・胤定は宗家から下総国香取郡鏑木郷を与えられ、「鏑木氏」を称するようになる。

千葉宗家に属す

 鏑木氏は千葉四天王の第二数えられ、白井庄内に館を構え、鏑木殿と称された。文永二年(1265)七月十九日付の『平某(千葉介頼胤)書状』の宛名は「白井九郎殿」であるが、この白井九郎は「白井九郎胤定」のことと考えられる。
 胤定の養子・胤泰は上総国武射郡蕪木郷に住み、その三男・常泰がそれを継承して蕪木郷を領して「蕪木」を称した。胤泰の長男・家胤は下総国香取郡鏑木を相続して鏑木を称した。
 家胤の四代の孫・駿河守公永には子がなかったため、彼の妹が嫁いだ常陸の大掾一族・真壁義成の子三郎幹成を、みずからの養嗣子として迎えて白井氏を継がせた。幹成の子・胤永は千葉介勝胤の重臣となり、上総国真里谷城主・武田氏と戦っている。その子・胤治は「今孔明」として関東一円に聞こえた軍略家であった。
 胤治は千葉介利胤・親胤・胤富の三代に軍師として仕え、永禄九年(1566)二月の臼井城の戦いでは、戦の天才・上杉謙信が率いる大軍勢を壊滅させる功を顕わしている。 胤治にはそれまで子がなかったために、真壁胤吉の子・宗幹を養子として迎えていたが、臼井城の戦いの年、永禄九年(1566)になって、実子の胤隆が生まれた。しかし胤治はあえて実子・胤隆を嫡子とはせず、養子の宗幹に跡を継がせている。
 小田原の戦いに際しても、宗幹が白井氏の当主として、養父・胤治の次男・胤邑を伴って小田原城に入城し、胤隆には千葉郷多部田城の守備を命じた。胤隆も宗幹の期待によく応え、籠城して徳川家康軍と戦った。

戦国時代の終焉

 宗幹は千葉介胤富の娘が正室であり、主君・千葉介邦胤とは義兄弟であった。宗幹は小田原城陥落後、浪人しているところを豊臣秀吉に見いだされ、その力量を見込まれて関白・豊臣秀次の家老に抜擢されている。秀次が切腹させられたのちも罪に問われることなく秀吉の直臣となり、文禄慶長の役では、肥前国名護屋城に供奉した。
 宗幹と千葉介胤富女の間には胤幹・幹時・娘一人(千葉介邦胤妻)のあわせて3人の子が生まれ、胤幹は早世してしまったため、次男・志摩守幹時が白井氏の家督を継いだ。幹時の長女・春は徳川家康の侍女となり、幹時の死後は芳春院と号した。
 春の弟・左馬助伊信は、元和二年(1616)、水戸藩祖徳川頼房の小姓として出仕。その後、累進を重ね、二代藩主・徳川光圀の代には水戸藩大老という重職に就き、1500石を知行した。そして彼の子孫も代々水戸藩家老職・城代職をつとめ、幕末の水戸藩若年寄格・白井久胤らは、門閥家老・結城寅寿らのと対立。寅寿らは失脚するものの、その残党のために藩政は改革派(尊攘鎮派)が押し込められる形となり、久胤は老中に訴えるなど東奔西走したが、ついに結城派残党(諸生派。攘夷論を唱える)によって捕らわれ、慶応元年(1865)病死した。しかし、明治時代に彼ら改革派の功績が認められ、久胤は正五位を贈られた。

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