ヘッダイメージ



下野小野寺氏
六つ木瓜
(藤原氏秀郷流首藤氏族)


 小野寺氏は、藤原秀郷の後裔で、首藤氏族で、下野国都賀郡小野寺保から興った。始祖義寛は滝口の武士となり、源氏譜代の家人として源為義より小野寺七ケ村を与えられ土着し、小野寺を称した。その過程で、小野寺保の保司職を大慈寺より拝領。以後小野寺氏は、源頼朝の挙兵に従い、地頭職を補任されたらしく、御家人の列に加わる。
 文治五年(1189)の源頼朝の奥州征伐に従軍した小野寺道綱(道縄・通綱)は、軍功によって出羽国雄勝郡の地頭職に補任されたが、下野国の本領に帰り、鎌倉に住んでいた。その後、雄勝郡へは通綱四世の孫・経道が移住し、経道を出羽小野寺氏の祖としている。
 小野寺氏本流は関東に居住し、小野寺の地に拠っている。しかし、通氏の跡に出羽流の小野寺通義の子顕通が養子に送り込まれ、実質的には小野寺宗家も出羽流の流れとなった。とはいえ、小野寺氏に関する系図としては、「稲庭系図」「小野寺正系図」「和賀小野寺系図」など、数本の系図が伝えられ、それぞれ異同が少なくなく、混乱しているというのが実情である。
 ちなみに、小野寺氏の祖とされる義寛に関しても、その父に関してはさまざまな説があり一定していない。また、義寛と通綱を同一人物とするものもある。さらにいえば、諸本の系図により小野寺氏の系図を構成すれば、下記参考系図のようになるのであるが、各流あるとされる小野寺氏の詳細は、実際のところ十分に把握されているとは言い難いのが現状である。

動乱期の小野寺氏

 室町時代、小野寺道業の子朝道は中務少輔を称し、永享の乱(1438)に際して、小山持政とともに足利持氏方に加勢した。宝徳二年江ノ島合戦に扇谷上杉顕房勢として参戦。同年八月三日付の感状が伝わっている。  道業の孫朝古の頃、小野寺氏は弱体化の一途をたどり、かねてから縁のある、豪族、佐野氏から養子として朝綱を迎え入れて家勢の罰挽回を図った。年代は不明であるが、足利成氏の軍勢催促状が残っている。また、古河公方足利政氏が佐野周防守を通じて小野寺氏に加勢するよう促した文書もある。
 戦国後期、小野寺長綱は兵部丞・中務少輔と称して長尾家の配下にあったらしく、足利城主長尾但馬守景長の代官として北條氏康軍に加勢、感状を賜っている。長男の景綱は、長尾但馬守景長より、「景」の一字を賜り景綱を名乗った。『古事聞書』によると、景綱は慶長年間に領地を没収され、浪人となって川崎村に居住していた、とある。そののち、徳川家康の命により他の領主が川崎村に入ってきた。百姓らは領主に対する不満を年貢遅納、滞納・訴訟というかたちで表すようになり、代官は領民が旧主小野寺氏を信望するが故のことと思い領主へ訴えた。領主は家康に讒言し、こののち景綱はあらぬ疑いをかけられ自刃した。長綱二男は顕綱で刑部丞と称し、天正九年主家長尾顕長から「顕」の一字を賜った。
 『群馬大辞典』の「小野寺氏」の項に、戦国期には、越後長尾氏と相模後北条氏の北関東進出前に、佐野氏、次いで足利長尾氏と被官関係を結ぶが、やがて佐竹氏の被官化し、慶長七年(1602)佐竹氏の秋田転封とともに小野寺氏も秋田へ移ったと書かれている。いずれにしても、中世より小野寺保の領主として存続した小野寺氏の常陸時代は終わったのである。下野流小野寺氏の分かれの貞瀧坊小野寺氏は、代々僧侶となり、関ヶ原後下野流が途絶えたのち、この家の系譜を末代にまで伝えた。


■参考略系図
    


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧