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摂津氏
●抱き杏葉
●中原氏流


 摂津氏は、京都の明法家中原氏の分かれである。中原氏は古代の安寧天皇の皇子という磯城皇津彦命を祖とするといわれている。はじめ十市首(おびと)であったが、十市有象のとき中原朝臣を賜り、治部大輔・算博士・大外記などを務めた。一族には明経道の博士が多く、代々局務に携わって大外記・少外記を世襲した。

鎌倉幕府の創業に活躍

 鎌倉幕府の成立時、中原氏は法律に明るいところから大江広元らとともに文官として幕府の創業に尽力した。一説に大江広元も中原氏の出身といわれるが、大江維光の子で母が中原広季と再婚したので、広季の養子となり中原姓を名乗ったが、のちに大江姓に復したものが誤って伝えられたものである。
 広季は広元のほかに藤原光能の子親能を養子としていて、親能は源頼朝の側近として重用され、鎮西奉行も務めた。親能も父広季と同様に能直・親実・師員・師俊・親家らを養子としたことで、多くの中世武家が中原氏から分かれでた。能直は近藤氏から養子に入った人物で子孫は豊後に本拠をかまえて大友氏を名乗り、親実・師員・師俊・親家らは一族から養子に入ったものたちで、それぞれ厳島神社大宮司・三池・鹿子木・門司氏らの祖となった。摂津氏の祖となったのは師員で、親能とは従兄弟の関係になる師茂の三男であった。
 大友氏をはじめ、三池・鹿子木・門司氏らが鎮西に勢力を築いたのは、親能が鎮西奉行を務めたことにちなむものであろう。
 師員は摂津守に補任され、嘉禄元年(1225)から建長三年(1251)まで鎌倉幕府の評定衆の一員として「貞永式目」にも連署したことが知られている。子の師連、孫の親致も法に明るい中原氏の当主として評定衆の一員となり、親致は問注所執事も務めている。そして、この親致が摂津守に任官していたことで、摂津氏を称したのである。このことは、地名を名字とすることが多い武家にあって、摂津は職名を名字とするケースの一例ともいえよう。

明法家として室町幕府に仕える

 鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の内乱を経て室町幕府が成立したが、摂津氏は幕府内にあって依然として評定に参与していた。その様子は『御評定定着座次第』から窺われ、また問注所執事や地方奉行、神宮奉行などにも就任している。摂津氏の場合、武将というよりは文治に明るい家風をもって家名を存続していたのである。
 やがて、戦乱が日本全国を覆うようになると、幕府の諸機関は次第に有名無実化していくことになるが、摂津氏が世襲する官途奉行は官位を欲する戦国大名らから莫大な礼金を得ることから、失墜した将軍家の財政を支える役目を果たした。さらに応仁二年(1468)一時的ではあったが、摂津之親は丹後与謝郡の分国守護に任ぜられており、幕府内では守護大名に次ぐ家格を与えられ、他の奉行人とは明確に区別される存在であった。
 ちなみに『見聞諸家紋』には、摂津之親の家紋が収録されている。すなわち「抱き杏葉」紋で、諸家紋には中原氏から分かれたとされる、大友氏.田村氏・厳島大宮司などの家紋も収録されているが、いずれも「抱き杏葉」紋であり、家紋が一族を表すシンボルであったことが知られるのである。
 摂津氏は之親のあと、政親─元親がいずれも摂津守に補任されたことが系図などから知られる。しかし、それぞれの事蹟は詳らかでは無く、打ち続く戦国争乱のなかで幕府が衰退していくとともに、摂津氏も次第に勢力を失っていったようだ。

幕府官僚─摂津氏

 とはいえ、摂津氏の動向は当時の記録に散見している。『忠富王記』の文亀元年(1501)に摂津元親、『三条西実隆公記』の永正五年(1508)には、加賀の所領に在国していた摂津元親が飛鳥井中納言・姉小路三位・勘修寺右大弁宰相らとともに三条西実隆の邸を訪ねたことが記されている。さらに、『歴名土代』の永正十六年に摂津元造が従四位下に叙されとあり、享禄元年(1531)には摂津守に補されたことがみえている。そして、天文十五年(1546)、足利義輝の元服加冠の式が行われたが、その惣奉行をつとめたのは摂津元造であった。ここにみえる元親と元造は同一人物とみられ、政親の子であった。摂津氏は勢力を衰退させたとはいえ、室町幕府の重臣として幕府内において一定の地位を遺維持していたことが知られる。
 一方、享禄元年には摂津元造の嫡子晴直が中務大輔に任じられている。そして、天文十六年、将軍義輝が細川元晴を討伐するため北白川城に入ったとき、晴直は義輝に従っている。永禄五年(1562)、義輝は当参以下の名簿を録させたが、そのなかの外様詰衆のひとりとして晴門(晴直改め)が記録されている。その後の永禄八年、三好義継・松永久秀らの謀叛によって足利義輝が殺害された。このとき、晴門の嫡子糸千代丸は義輝とともに奮戦、討死したことが『東寺過去帳』から知られる。ここにおいて、摂津氏嫡流の血脈は絶えたようだ。
 余談ながら、京都に残った中原氏は公卿に列することはなかったが、地下の上座として南北朝期から押小路を称して子孫は明治に至った。・2005年07月07日


■参考略系図


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