仙石氏は清和源氏土岐氏の支流を自称し、『改選仙石家譜』に「美濃の本地八百四十五貫六百文」とあり、美濃守護土岐氏配下の一土豪であったとみられる。 仙石氏の系図としてもっとも詳細なものが、鈴木真年編『諸氏本系帳』四に所収の「仙石系図」である。それによれば、鎮守府将軍藤原利仁の後裔後藤太則明の子妙見四郎能季に始まるとある。能季の玄孫成基は源頼朝に仕え、美濃国本巣郡生津等の地頭職を賜った。以後、子孫代々本巣郡に居住し、その六世孫久重は足利尊氏将に仕え山県郡中村千石谷に因んで千石次郎と名乗った。久重の四世孫基秀は嗣子がなかったため、土岐一族船木満久の子久重を婿に迎えて家督を譲った。その孫が治兵衛久盛、久盛の子が有名な権兵衛秀久だという。 江戸時代に編纂された「寛政重修諸家譜」では仙石氏の系を久盛から起こしており、仙石氏の出自に関しては不詳というのが正しい理解といえそうだ。 権兵衛秀久の出世 仙石氏の名をあらわしたのは、戦国時代の権兵衛秀久であろう。秀久は仙石治兵衛久盛の子として、天文二十年(1551)、美濃国加茂郡黒岩に生まれたという。久盛は美濃守護土岐氏、その家老でのちに土岐氏に取って代わった斎藤氏に仕えていた。 秀久ははじめ越前の豪族萩原伊予守国満の養子となっていたが、相次ぐ兄の死により実家に帰って仙石氏の家督を継いだ。そして、美濃斎藤氏に仕えていたが、斎藤氏が織田信長に滅ぼされると、信長に臣従し木下(豊臣)秀吉の部下に配属された。これが彼の出世の糸口となったが、ときに秀久十四歳であった。 かくして、秀吉に仕えた秀久は、元亀元年(1570)、姉川の戦いで浅井方の武将山崎新平を討ち取り名を挙げ、天正二年(1574)、近江野洲郡に千石を与えられた。以後、秀吉の中国征伐に従軍して諸所の合戦に活躍、秀吉の出世とともに大名への道をひた走っていったのである。 天正十年(1582)、本能寺の変で信長が横死したのち、秀吉が天下人としての実権を掌握した。天正十一年(1583)、淡路国が攻略されると淡路を任され洲本城主となった。そして、秀吉の四国侵攻の最前線に立ち、四国の覇者長宗我部元親と対峙を続けた。天正十三年、四国が平定されると讃岐国高松十万石を与えられ、一躍大大名に出世した。 四国を平らげた秀吉は、大友氏の要請を入れたカタチで九州島津攻めを開始、四国勢はその先遣隊を命じられた。四国勢の軍監に任じられた秀久は、勇躍して九州に渡海した。秀久の任は、秀吉本隊が九州に入るまで、島津勢の攻勢を防御することにあった。ところが、島津勢の巧みな挑発の乗せられた秀久は、長宗我部元親・十河存保らの意見に耳をかさず出撃、結果、大敗北を喫した。そればかりか、戦場から遁走して小倉城に撤退、さらに讃岐へ逃げ帰るという醜態をみせてしまった。秀吉の激怒にあった秀久は、軍令違反もあって所領は没収、浪人となってしまった。 近世大名へ 天正十八年、小田原の陣が起こると秀久は秀吉のもとに馳せ参じ、自ら十文字槍を振るって奮戦した。伊豆山中城攻めでは先陣を務め、小田原城攻めでも虎口の一つを占拠するなど抜群の戦功をあげた。箱根の仙石原は、秀久の奮戦した地であることから名づけられたのだという。この一連の功によって先の罪を許された秀久は、改めて信濃国佐久郡を与えられ、小諸城主として五万石の大名に復活したのである。以後、文禄の役における名護屋城の築城、ついで伏見城の築城工事に活躍、秀吉から加増を受けている。 慶長三年(1598)、秀吉が死去すると、かねてより懇意であった徳川家康に接近していった。慶長五年、関が原の合戦が起こると徳川家康に味方し、徳川秀忠の率いる中山道軍に属した。そして、真田昌幸の守る上田城を攻撃、関が原の合戦に間に合わなかった。家康は秀忠の遅参に激怒したが、謝罪に努めて事をおさめたのは秀久であった。のちに将軍に就いた秀忠は秀久を重く用い、秀忠付という名誉職を与えられられ面目を施している。 秀久には数人の男子があったが、長男の久忠は盲目であったため、二男の秀範が家督を継ぐかと思われた。ところが、秀範は関が原の合戦で西軍に味方したため廃嫡、秀久のあとを継いだのは三男の忠政であった。忠政は大坂の両陣に参戦、戦功により、信濃上田六万石に加増転封された。上田転封のことは、忠政が秀忠に願い出たものといい、前藩主真田氏は父祖の地から松代へ転封という割りを食っている。 その後、仙石政明の代の宝永三年(1706)、但馬出石藩に転封されて明治維新に至った。出石時代、藩政改革をめぐる対立から起こった仙石騒動はつとに有名である。現在、出石の名物として知られる「出石そば」は、仙石氏が信濃から但馬に転じたとき、信濃の蕎麦職人を同行したのが始まりとされている。 ●系図情報:古樹紀之房間さんのサイト。 ■参考略系図 ・鈴木真年編『諸氏本系帳』四に所収の「仙石系図」より作成。 |