佐藤忠信の子義忠は「大鳥城の佐藤一族を代表して」文治六年(1190)正月の大河次郎の叛乱に軍功をたて、源頼朝から五千貫余の采地を賜り、頼朝の前をはばかって義忠を信隆と改め、子孫繁衍したとされる。信隆には系譜をみると六、七人の子がいたことになっている。そして、そのうちの四郎安忠は従五位下出羽守に叙せられ、置賜郡豊田邑に住し、同郡花沢城主となって、采地五千余町を領したと家譜に記されている。 以後、長信に至るまで花沢城に住した。長信の父重信は、暦応三年(1341)に南朝方と戦い、将軍足利尊氏から本領安堵の御教書を賜ったという。 やがて、伊達氏の勢力が陸中に及ぶようになり、伊達宗遠のとき大軍を催して出羽国置賜郡長井荘を攻め、長井氏と花沢城主佐藤長信の連合軍と戦い、長信と長井氏との連合軍は大敗を喫し、長信とその一党は遠く岩代国まで逃れ岩城家に奇寓した。それより重行まで四代岩城家のもとにあった。 重行の子伊勢守重成は、岩城重隆の老臣であったが、岩城氏の姫が伊達晴宗に嫁ぐとき、その補佐役として米沢に赴き、伊達家の要請によりその臣下に属して、父祖墳墓の地である羽州置賜郡の下長井荘荻野中山二邑の采地千二百石を賜った。これより、重成とその嫡子紀伊守重時は中山城に居住して遂に岩城家には帰らなかった。 元亀元年(1570)四月、羽州小松の合戦において紀伊守が討死した。その戦いは私闘とされて領地を没収され、紀伊守の子重元も父との縁座によって中山城を出て米沢城下で閉門の身となった。その後、許されて再び召し出され、天正十九年(1591)、伊達政宗の仙台移城のとき従って、采領三百石を得て名取郡釣取邑忍ケ岡に居住した。 【参考資料:佐藤一族/福島県史 など】 ■参考略系図 |