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美濃佐藤氏
源氏車
(藤原氏秀郷流)


 美濃地方に古くから佐藤氏が土豪として続き、また戦国武将としても勢力を振るった。
 佐藤姓の始まりとして、藤原公清が左衛門尉に仁じられたことから「左衛門の藤原」、下野国佐野に住したことから「佐野の藤原」がそれぞれ佐藤になったとする二説が有力とされ、さらに、公清が佐渡の国司として赴任したことから「佐渡の佐藤」という説もある。ところで、公清の父藤原公光は豊後国海部郡佐伯の住人、検非違使佐伯大神惟基の養子となり、はしめて佐伯藤、すなわち佐藤を称したとするものもある。
 公清は兄の内舎人公脩とともに陸奥国信夫に移住し、検非違使鎮守府軍監として源頼信に仕え、車輪紋を授けられ、これを旗印とし、源氏車と称したという。その孫の康清の二男義清は鳥羽院に仕えて北面の武士となり、のちに出家した。この人物こそ西行法師その人である。この西行の兄で、後一条摂政藤原師通の臣、内舎人仲清の子孫に佐藤三河守通信があらわれ、美濃国武儀郡に所領を得て上有知の七尾山に藤城を築いた。そして、通信の子が武人として知られるサふじ修理太夫宗信である。

美濃の乱世を生きる

 宗信は応仁の大乱が勃発するや、兵火のかかる京洛の室町御所にいちはやく参第し、将軍義政に謁してその直臣に列し、その勇猛な戦ぶりを褒賞され、修理太夫に任じられてて美濃国武儀郡に采邑を賜って七尾山に城塞を構築した。これによれば、七尾城を築いたのは通信ではなく、宗信ということになる。いずれにしろ、こうして佐藤氏は美濃国の城持ち領主となったのだである。
 応仁の乱より七十年後の天文九年(1540)八月、佐藤将監清信が藤城を改築拡張して「鉈尾山城」とし、四隣に威を振るった。鉈尾山城は東西二十一間、南北十八間、四方ともに「釣り壁」の要害で、楠木正成が拠った千早城に比すべき日本有数の山城だったという。古書にも佐藤清信は長良川沿岸に城下町を開き、かつ規模壮大な鉈尾山城を築いて美濃佐藤氏三代の基礎を築いたとある。
 ところで、清信については「異本佐藤系図」には、秀信という名で記されている。また「姓氏家系大辞典」をみれば「鉈尾山城は、佐藤将賢、その子秀方、その子方正の三代の居城」とある。清信は織田信長の美濃攻めに降伏し、永禄六年(1563)保寧寺を建立したことが知られる。
 方政は、二万石を領した。天正十五年(15877)、秀吉の九州征伐に従軍、同十八年には父の代理として小田原の役に出陣した。文禄二年(1593)父の隠居にともない家督を継いだ。

佐藤氏の没落

 慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦に際して、岐阜中納言秀信に従い、木造左衛門、百々越前守らとともに三千ニ百の手兵を率い、米野と新加納の間に陣を張り、奮戦しおおたが及ばず、岐阜城に退き、籠城を力説したが容れあれぬまま、兵を外郭山麓の所々の砦に分散し、搦手裏山の百曲り口で攻め寄せる大軍を迎え討ち、防戦につとめたが、ついに壮烈な戦死をとげた。
 一説には、方政は母の里の西方美濃石津乙坂村に潜居し、大阪冬の陣が起こると大坂城に入城し、元和元年(1615)夏の陣にいて戦死したともいい、また、方政は岐阜城を落ち延びて、叔父にあたる金森長近の陣にく降り、その後閑居してたが、大坂の役に際して、大坂城に入り、豊臣秀頼の馬前に討死したともいう。


武儀郡の佐藤氏

 美濃国守護土岐氏の家臣で、武儀郡八幡村に五千貫文を領した佐藤石見守公輝がいた。この佐藤氏は佐藤尾張守公郷の子清郷を祖にするという。
 戦国時代、守護土岐氏が家臣の斎藤道三に追放されると、永碌のはじめ紀伊守(忠能)は織田信長に服属してその幕下となり、天正六年(1578)に同郡伊深村で病没した。子孫は河小牧村に移住して郷士として続いた。
 系図によれば、紀伊守忠能は加茂郡加治田城主で、永碌七年八月井ノ口城(稲葉山城)の落城によって尾張の織田信長が稲葉山城主になると、これに仕えた。翌年、加茂郡の堂洞城主岸勘解由の討伐軍に加わり、戦功をあげ信長より感状を賜った。しかし、この合戦において、家督を継ぐべき嫡男の右近衛門が討死にしている。
 のちに信長の世話で斎藤長竜を婿養子とし、家督を譲った。長竜は本能寺の変に際して信長に殉じ、右近衛門の弟にあたる二男昌信は、天正十年、兼山烏ケ峰城主の森長一の軍と戦って敗れ相模国佐野川に移住していった。こうして、佐藤氏の家を継ぐ者がなく、祀りは絶えた。
 傷心の紀伊守が晩年を送った伊深村は、信長の家臣佐藤信則が居城し、その子孫は徳川旗本となっている。ところで、忠能の三女は佐藤駿河守に嫁ぎ生まれた吉次は日光東照宮の造営奉行となり、子孫は徳川旗本として続いた。
 ところで、武儀郡八幡村の佐藤氏は、鎌足公よりの系図を蔵して、その紋所は「丸に三つ柏」を用い、嫡子のみが名字と家督を継ぎ、みだりに他の一族に佐藤姓を許さなかったという。いまも、その後裔が存している。

参考資料:佐藤一族 ほか】



■参考略系図
・詳細系図不詳。
   


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