備前・美作・備中に、数流の佐藤氏がある。そのなかで、久米郡川口の佐藤氏は代々楠木氏に仕えたという。そして、永享年中(1429〜41)に、佐藤光右衛門茂成のとき、流浪して久米郡にいたり、たまたま旧創を病み土着したと伝える。当時は南朝系の地方豪族を締め出す政策がとられていたこともあり、佐藤氏も南朝方に味方していたことから、久米郡に身を潜めたものと考えられる。 この佐藤氏は「主流は四国阿波に赴任した相模守公俊の一族といい、応仁の乱に三好松永党に与し、沢清のとき奈良の守護までになった。しかし、織田信長の攻撃に抗しきれず、美作津山に退避した」とするものある。 ちなみに「三明寺佐藤氏文書」によれば、南北朝内乱後の大和は、興福寺の神人が武士化し、北大和では筒井・古市、南大和では十市・越智氏らとなり、やがて筒井氏が勢力を伸ばすようになった。そして戦国時代、三好氏の執権松永弾正の大和侵攻によって、奈良の古都、大仏殿が松永氏の手によって兵火にさらされた。当時、大和国葛城郡高間の城主であった佐藤三郎左衛門は、元亀三年三月、松永久秀が信長に謀叛を起こしたときに、高間城を落ちて、作州に遁れたとある。 三郎左衛門は沢清であり、妻女と二人の幼児を連れて作州三明寺野上代という山里に辿りつき、その地に土着し、佐藤氏の秘宝である天津児屋根命を神体として十二所権現を勧進して一宇の社殿を建立したという。沢清の孫清元は垪和村角石頼母に、清次は備前国津高郡上田村に、清忠は三明寺本村に、清定は和田村鶴田に分家し、それぞれ土着帰農して大庄屋になったという。清信は津山城下に別家し、森中将忠政に召し抱えられ、津山藩士となった。 また、沢清の子のうち常久は備中国高松の戸川家に仕え、その子は藤原三郎と改名して角石村に移り住み、常久の弟常盛は備中国都宇妹尾村に住して豪農として続いた。 【参考資料:佐藤一族 ほか】 ■参考略系図 |